無題
おぼろん

 誘うように、それは語り始めた。意識のうえに上るものが、必ずしも真実ではないと、それは告げているかのようだった。物質に満たされたこの世界において、心とはいかにもはかなげなものであり、今にも消え入りそうだと、あなたは思わないか? 例えば小鳥が鳴く、小鳥は意思を思惟して鳴くものではないだろう。ただ、本能によって鳴くのだ。だとすれば、我々の叫びとは? 我々の叫びとは、自我の萌芽であることは間違いない。それは良いのだ。難しいのは、そこから先へと行くことだ。我々は常に思惟している。そのまどろっこしい混線のなかに、我々の意識は存在している。未だに、理性と心理との懸隔を謂いする論争は、後を絶たない。あなたは何によって惟うのか。あるいは惟わないのか。その閉ざされた扉を開くものは、ただ己の声に従って発声・発語することによる他はない。あなたは何によって悲しむのか、何によって喜ぶのか。その根源を突き詰めたことはあるだろうか? 人の人たる所以、という大仰にして簡便な問いを、未だに発しても良いのだ。人は自らの力動によって悲しみ、喜ぶ。果たして、その行く末とは? 我々はただ単に思い(コギト・エルゴ・スム)、そして存在し得る。存在とは、本当は膨大な概念によってのみ保証され得るものであるのだ。我々は、ただ存在することによっても、至高な存在たり得る。あなたはそのことを振り返ってみたことがあるだろうか? 我々は小鳥ではない。ましてや、石や岩ではない。透徹した生命である。我々の誇りが、我々の所業によってたとえ無に帰するものだとしても、我々はまず疑わねばならない。あなたは、それを受け入れねばならない。我々は、小鳥ではない、岩ではない、と……。ああ、こんな蛇足的な言明が何を意味するだろうか。現にあなたたちは生きている。そして、発語し、会話し、一人の海へと沈んでゆく。それが自然なのだ。我々を救うものは、我々自身の存在可能性によるしかないのだと。海は、海だ。……誘うように、それは語り始めた。


自由詩 無題 Copyright おぼろん 2023-10-06 22:23:48
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