メモ1
由比良 倖

1.1
 脳の奥にいつまでも残る風景。この上なく優しくて、これ以上無いくらい、大切な景色。秋の生暖かい涼しさが部屋の中まで浸み入ってきて、全身を包む。とげとげしい、狂った秒針が僕の中で震える。手の付けようのないほど散らかった部屋を眺め回すだけで、体内時計がぐるぐると狂っていくような感じがする。今から一体何を始めたらいいか分からない。『Zen & The Art of Motorcycle Maintenance』という本を読んでいる。英語が分からないので、ゆっくりと。辞書を引きながら。

 ……汚れひとつなく澄んだ水溜まりのような景色がある。……僕は泣き虫かもしれない。すぐ泣く人は頭が悪い可能性があると聞いたことがある。トマトジュースが好きで、それは父譲りの嗜好なのかもなのかもしれないけれど、飲みかけのトマトジュースが夜の中にあって、月の見えない日に、スピーカーで静かにエヴァン・コールの音楽を流していると、そしてそれが友人が帰った後の空白だったりすると、グラスに残った真っ赤なトマトジュースを眺めながら、澄んだ炭酸水みたいな感覚が全身の皮膚を粟立てるような瞬間があって、僕は、まるで宇宙の果ての隠し戸にすっぽり嵌まってしまったみたいに、とても小さな気持ちで、泣きたくなってしまう。想像が半分、掠れた現実が半分の気分で。

 僕の書く文章には特に趣旨は無くて、ただ咲かせるべき心の中の言葉の種を、社交辞令的な苛立ち抜きで、出来うる限り咲かせたいと思う。感傷的な音楽を聴きながら。
 いくつか、書きたいような、批評的なこともある。あるにはあるけれど、夜の静けさには、微かな色合いと意味合いがあって、批評は僕をざらざらした現実感に連れ戻してしまう。それはただの比喩よりずっと色濃くて、例えば中国大陸から飛散してきた黄砂が僕の呼吸を邪魔するように、批評的な文章は、僕の疲労の度合いを深め、全身の筋繊維を強張らせてしまう。

 いろいろな声音が僕の中にはあって、それは心が沈黙しているときでさえ、僕を脅かすこともあれば、沈黙の冷たさや、優しい手ざわりで、僕を乾いた外界から守ってくれることもある。微笑が一番強い。自らの存在意義を忘れて、ギターで溜息のような音を出しながら、世界の一番端っこで、自分の弱さを感じるときほど、僕は世界の中心にいて、不思議な力に守られていると感じる。

 もっともっと、人間について、何かを書きたい。僕たちはそれぞれ、動かなくなったバスに閉じ込められて、途方に暮れた乗客みたいなものだ。地球という小さなバスに詰め込まれて、ある人たちはいがみ合い、ある人は押し黙ったまま孤立している。立ち上がって、何か小さな優しさを、他の乗客に手渡せるような人になれたらと思う。全員には無理でも。手紙を書いたり、何の気なく話せたり、小さな声で歌ったり、楽器を奏でたり出来たらいいなと思う。僕は大きな世界に住んでいる。いろいろな人がいる。僕は今は、少しくらい軽蔑されても、別にいいやって思っている。僕は立ち上がって、隅っこの方で打ちひしがれていて、今にも窓から飛び降りてしまいそうな人に、泣きそうな表情ひとつでも送れるような人になりたい。笑みなんて押しつけがましすぎるから、この世には他の手がある。死にたがりの僕として、誰かと心中してもいい。けど、それもまた傲慢で、もっとずっとましな方法があると思う。世界の端で、僕は書いている。もうひとつの世界の端で、怯えている誰かに、秘かに送れたらと願いながら。


1.2
 世界は無色で無音だけれど、決して味気ない訳ではない。無音なのに全ては音楽で、無色なのに全てはカラフル。この世界にはあらゆる醜い感情や、恨みや、死や理不尽でさえも包み込んでくれる何かがある。それはあらゆる感情を浄化する。どこまでも透明で、そこにはあらゆるものが沈んでいき、溶け込んでいく。世界は当然のように、僕の中にある。そしてまた、僕の外に拡がっている。世界はどこまでも広く、どこまでも深く、永遠のようにどこまでも続いている。

 広大な世界の中で、人間の世界は、虹のように奇跡的に、何故か存在している。そこは何もかもが詰まった宝箱であり、小さな楽園のよう。人間の世界には、何もかもがある。
 何よりそこには、言葉がある。僕は日本語と英語が大好きだ。僕は宇宙なのに。僕は液体みたいなものなのに。僕は名前を持たない、海の底に咲く、ただ一輪の白い花なのに。僕は存在しないのに。なのに人間たちのいるこの世界で、僕は人間として生きている。
 僕が住めるのは実質、人間の世界だけだ。本来は有り得ないとても小さな場所。人間の世界は、僕が最初からいた場所ではない。僕は人間として生まれたのではなく、自分で人間であることを選び、いまだ人間になろうとしている最中なのだ。

 窓外の空は霞がかっている。煙だろうか? 夕方頃、ときどき空がすごい色に染まる。新鮮なサーモンの色だったり、かと思うと群青だったり。中国の(今日は何かと中国が好きだな)大きな湖をひっくり返したみたいな、とろりとした浅葱色だったり。九寨溝というチベット近くの、青っぽい虹をガラスにして張ったような湖を、昔テレビで見て、ずっと印象に残っている。あまりに説得力のある美しさは、まるで幻想のようで、生きることに沈黙を強いられるよう。あとはアリゾナにある、砂の夢みたいなアンテロープキャニオンだとか。

 秋の初めの風の匂いには、微かにひんやりとした成分が混じっているけれど、昼間、日の射す二階の僕の部屋は、まだまだ暑くて、朝や夜には薄い夏用ニットか、生成りのカーディガンを羽織っているけれど、真っ昼間の一番暖かい時間帯には、袖をまくり上げるか、Tシャツ一枚で過ごしている。
 空は一点の青さも見えないくらい霞んでいて、それも黄色がかっているので、やっぱり優雅な霞なんかじゃなくて、季節外れの花粉……花粉の幽霊や砂が大気に満ちているみたいだと思う。流れる雲も見えない。こんな日でも、水辺には、あるいは枯れかけた草が生えていて、何処かの野原に行けば、赤や黄色の、名前も知らない花たちが、僕の心を和ませてくれるのだろうか? 僕には本当に縁遠い景色だ。


1.3
 迷いなんて無くなれば。イメージの中で生きられれば。僕が信じるものたち:人間、機械、言葉、音楽、アニメ、イラスト、消失、。、、、ディスプレイはとても優しいから撫でたくなる。身体が軽い。深遠さっていうのは、自分が小さくなるほど、世界が大きくなって、自分が消えたとき、世界の全てだけが残る、多分それだけのこと。

 僕はナチュラルハイが多分一番気持ち良くて、しかもそれには危険性が(おそらく)無いと知っている。音楽の快感や、書けることの幸せ。……躁鬱の人は、躁のときの万能感が忘れられなくて、鬱のときの惨めで不幸な自分を余計に辛く感じると言われている。一番調子がいいときの自分こそが本来の自分なのだと、誰だって信じたくなるものだから。僕はそれに少し近いかもしれない。少しくらいの幸せな気分では満足出来なくなっている。本当の幸せや気持ち良さは、こんなものじゃないんだって。地道に気長に努力することを忘れて、自然にハッピーな気持ちが湧いてくることばかりを望んでいる。
 でも、もしかしたらナチュラルハイって、例え苦痛であっても努力し続ける人だけに訪れる、恩恵のようなものなのかもしれない。ぼーっとただ待っていても、幸せな時間なんて永遠に訪れないのかもしれない。僕は、朝起きると、既に使い古されているように感じる今日一日が辛くて、とにかく薬を飲んで目を覚まして、大体一日中ベッドに座って、嫌な言葉(日本語)たちにぐるぐる巻きにされてばかりで、今から何をして、そして何を努力すればいいのか、分からなくなっている。

 暗い気分のとき、暗い気持ちを暗いままに書くことはとても難しい。言語力や、書きたいという気持ちが減退しているからだ。無理矢理にでもいいから、頭を使えるときは楽しい。何であれ、考えることは楽しいという風に、人は(少なくとも僕は)出来ていると思う。楽しい時間は、それだけで完結している。地球の周りを回り続ける月のように、意味も無く、ただ自分自身の為だけに存在すること。ただ、光り続けること。月は、別に人間のためには光っていない。月はただの月。月の光、それだけだ。
 ただ単に思考することも、それと似ている。別に意味は無い。シナプスが(多分)ぴかぴか発光しているだけ。意味があるものなんて、この世にはひとつも無い。世界には光と闇があるとして、その二極は、別に人間の利益の為に有る訳じゃない。自分だって、他人の利益の為に生きている訳じゃない。他の人に、光をあげることは出来る。でも闇は自分の中で滞るだけ。
 人は光を自家製造出来る。例え心が、光の届かない海の底にいたとしても、それでも自分の心には光を発する能力があると思う。例え他の誰からも、光を受け取れないとしても。

 後悔の念は特に無いし、もう夜中に寂しさに泣いたりとか、そういう湿っぽいことは全然しない。実際、感情的な苦しさに輾転としていたときもあったのだけど、そういう身体が絞り取られるような悲しさは、今は無い。
 ときどきとてもグロテスクな想像が頭から離れない。横になっても眠れないときなど。お腹の上に、節足動物に絡まれた胎児がいて、今にも弾けそうに血を流している、というような想像だ。胎児は死んでいるかもしれないのだけど、不意に顔を上げて僕の眼を覗き込んで来そうな不気味な感覚がある。
 もちろんそれは想像であって、妄想でも幻覚でもない。でももう、何もかもが、腐って縺れ合った肉片で構成されているような感覚に襲われるときがある。生きてて、清らかな世界なんて、もう二度と見られないような、僕の脳が蝕まれて、感情にぽっかり生理的な空洞が空いてしまったような、何ひとつ取り返しが付かないような、諦めの感情、というか無感情が湧いてきて。虚無感や幻滅が溜まりに溜まって、黒い澱みになってしまった。しかも僕には、それに抗う気持ちが全然湧いてこない。為すがままで、結局こんなものなんだと思っている。どんなに凄惨な描写が繰り返されても、スプラッタ映画で泣くことは無い。笑うだけだ。薄く笑うだけ。

 ときどき日本語が本当に鬱陶しくなる。嫌いだと思う。僕の頭の中に咲き乱れた日本語の花や植物を全部刈り取って、真っ白な平地に出来たら、どんなにすっきりするだろうと思う。英語や数の方がいいなと思う。べとべとしてなくて、清潔で、夢の中でまで僕をぐるぐる巻きにしたりしないからだ。もちろんそれは僕が英語に慣れていないからであって、イギリス人などは英語の底に悪感情の泥沼を感じて、もしかしたら西洋的な悪魔を感じたりして脅かされているのかもしれない。

 けれどまた、時には日本語を非常に美しく感じることがある。

 自分ひとりの世界に入れるって素敵だ。冷たい泉で神経が満ち足りているよう。

 思い出だけが残ればいい。すごく小さく小さく荷物を纏めて、僕の生きてきた形跡を始末して、そして僕も消えたいと思う。消えることイコール死ぬことではなくて、例えば人は言葉の中にも消えることが出来るし、音楽の中にも消えていける。

 辛い気分のときは、世界全体がよそよそしく感じられる。冷たくて、空気が硬くて、そして遠い。人間味のまるで無い世界。秋になっても春になっても、風の匂いに変化を感じない。肌を包む空気には温度が無い。僕に感じられるのは、錆びたギターの弦の、淡い金属の匂いだけだ。

 僕は僕の記憶を抱きしめる。僕が今まで人間であったことの証を。窓の外には、視界の半分を覆い尽くす山が見える。あの山の向こうには自由の国があるのだと、時々想像してみる。でも実際あの山を越えても、隣の県があるだけだと知っている。
 僕は宇宙に住んでいるらしい。心の中にも広大な宇宙がある。今この瞬間にも、僕の中には宇宙が拡がっているはずだ。すごく努力したら、心の底に行けるのだろうか?


2.1
 文体を変える。少し比喩を使い過ぎた。

 僕も歳を取った。寝不足で顔色が悪い。また三日間眠っていない。血の気が引いた顔をしているのにとても高血圧だ。焦りが身体の中にあって、自殺願望と混ざり合っている。そこから、ハイテンションとスピード感で逃げ切ろうとしている。
 歳を取ることに不安は感じない。順当にこれから、じっくりと歳を取っていければいい。顔に薄いシミや皺が出来ている。白髪が、抜いても抜いても生えてくるので、もういっそ総白髪になってしまえばいいと思う。そういうことをネガティブに感じたりはしない。鏡で自分の顔をしげしげと見ると、特に疲れていると50歳くらいに見える。悪くない。老いた身体で、思い切り気持ち良く生きて行けばいい。

 世界を理解しようとして、意味を知りたくて、ずっと考えていたような気がするのだけれど、全然分からなかった。結局は、自分の息を呼吸すること、たったそれだけのことなのだと、やっと最近気付いた。今、僕にあるのは、僕の手だけだ。そして僕の心だけ。キーを打つ指先が気持ちいい。キーボードはかたかたととても軽快な音を立てている。
 頭の中で、言語野と音楽回路が復活しているのを感じる。実際に、頭の中にもやもやとした感触があって、シナプスが成長して、脳の血流量が増えているのを感じる。脳に感覚があるのかは知らないけれど、脳内に違和感があって腫瘍を早期発見した人の話を聞いたことがあるし、音楽を聴いたり、活字を読んだりすると、本当に頭の中のいろんな場所に気持ち良さを感じる。

 僕は脳の中に異常があったけれど、それはおそらく産まれ付きのものだと思う。僕が受けた程度のストレスで頭の病気になるなら、日本なんかは精神病患者で溢れて大変な状況になっているだろう。コンビニ並みに精神病院が増えていると思う。僕は楽しいときは、おかしいくらいに楽しい。いつも麻薬がいい感じに効いているみたいで、音楽を聴いているだけで、脳内麻薬がとめどなく溢れてきて、身体の感覚がほとんど無くなる。三大欲求が無くなって、音楽の存在だけを感じる。それ以外は全て「非在」する、という感じがする。何もかもが、音楽を残して、無くなってしまう。

 頭の中の気持ち良さの「苗」や「核」みたいなものは、成長すると思う。段々、いろんな音楽から快感を汲み取れるようになってくる。そして、自分にとって、好きな音楽と、そうでない音楽を選り分けることが容易になっていく。感傷的な音楽の聴き方をしなくなっていく。昔好きだった音楽を、昔を思い出しながら一所懸命聴くなんていう努力はしなくなる。自分が今現在好きな音楽の世界が拡がっていく。WALKMANのmicroSDのチップが、脳内の音楽回路にリンクしながら膨らんでいく。快感のシナプスとシンクロした、個人的なデータバンクが完成されていく。

 快感って何なのだろう? エンドルフィンとドーパミンが主に快楽物質と呼ばれていて、特にエンドルフィンが陶酔感に関係あるらしい。僕は苦痛以外何も感じなかった頃、最高の快感と多幸感が羨ましくて、最強クラスの麻薬であるヘロインにとても憧れていた。快感が一瞬であっても構わないと思っていた。ヘロインは素晴らしい快感を生じさせてくれるけれど、本当に気持ちいいのは数分間だけらしい。しかも効果が切れたときの苦痛は身体中の皮膚を剥かれて火あぶりにされたり、極寒の地に裸で放り出されたのかと錯覚するほどの、これ以上考えられないほどの地獄らしくて、その苦痛を抑えるために、またヘロインを打つという連鎖に、簡単に陥ってしまうらしい。自殺すること前提でなければ、とても手が出せない。
 だから一番いいのは、薬物無しでナチュラルハイに陥ることだ。

 ライティング・ハイってあると思う。書くことで自分の記憶の小路を旅するとか、そういうリリカルなことではなく、単純にキーを叩くのが気持ちいいという、ただのフィジカルな事実。煙草の火を丁寧にもみ消す。相変わらずぬるいコーヒーばかり飲んでいて、スピーカーからはアニメの歌の甘い丸っこい声が流れている。歌声に紛れて、クーラーの音、空気清浄器の音が微かにかさ付いて聞こえる。冷蔵庫は独り言がうるさいので、隣室に移動させた。
 音楽をジャズに換える。ジャズは20年近く前から好きで、音楽を聴けなかったここ12年間を除けばよく聴いていたのに、未だに特に好きなミュージシャンがいないというか、あまり演奏者による違いが分からないし、テナーサックスとアルトサックスの音の区別さえ付かないことが多い。慣れの問題かもしれない。ピアノやギターだと違いが分かるからだ。今、ウェイン・ショーター(テナーサックス奏者)のアルバムを聴いていて、おそらくピアノはハービー・ハンコックだろうと思っていたら、やっぱりそうだった。……音楽を浜渦正志に換える。

 頭の中には感覚器官は無いというけれど、嘘だと思う。西脇順三郎も、脳髄が心地いいように言葉を書くと言っていた。音楽をヘッドホンで聴くと、直接脳の中に音楽を浴びて、脳細胞が音楽に浸るような感じがして気持ちいいのだけど、スピーカーで聴いてもやはり脳の中に快感が拡がる。脳が音楽に染まると、世界が音楽になる。脳の奥の方の、皺の奥底まで、音楽が浸みていく。その血流量の増加や、シナプスの電気の発火を、僕は感じる。
 今脳内で、何処の細胞が騒いでいるか、僕は実際に知覚できる。……それって普通の感覚なのではないだろうか? それを感じない人は、音楽を主に身体で感じて、脳では感じないのだろうか? それとも何にも感じない? 僕は身体でも音楽を感じる。
 バロウズが、麻薬中毒者にとって身体とは、麻薬を打つための機械に過ぎないということを言っていた。僕にとって身体とは踊るもの。身体中の筋繊維や関節が喜んでいる。でももっと気持ち良くなると、身体を一切感じなくなる。キーを打つ指先の快感だけを感じる。眼鏡越しの柔らかな世界。

 活字にもまた快楽物質が含まれている。ある種の言葉には、麻薬そのものが含まれている。麻薬的というのではなく、物質としてのオピオイド。オピウムという単語が好きだ。小さな天使みたいで。言葉には天使的側面(The Angel Aspect of the Words)があると言った人もいる。当たり前の単語に、陶酔効果が含まれている。机とか光とか時計とか感情とか眼鏡とか。……部屋の中。自分のためだけのダンス。ナルシシズムの極限としての宇宙。その限りない広さと同時に、親密な四角い、限定された空間。混沌。混沌は全ての始まり。秩序からは何も産まれない。秩序は閉塞している。混沌は崩壊している。斜めに雪崩れ落ちながら、光を纏い、新たな命を形成していく。

 ヘッドホン/スピーカーを愛している。僕は眼鏡越しの世界が、平坦に見えて、デジタルみたいで好きだ。僕はどちらかと言えば、ヘッドホンよりスピーカーの方が好きだ。ヘッドホンの方が内に籠もれるから、ヘッドホンを偏愛する人の気持ちはよく分かるけれど、慣れるとスピーカーでも、内面的な気分で音楽を聴くことが出来るし、全身で聴けるので気持ちいい。脳の快感と、身体の快感の両方がある。ただ、結構音量を上げなくてはならないのだけど。BOSEの白いスピーカーを15年間愛用している。と言っても今のは2代目なのだけど。低音が温かくまろやかで、Bluetoothでも音がスカスカにならない。

 呼吸することさえ快感だ。気持ちいい振りなんてしなくていい。ただ当たり前に目を開けているだけでいい。
 皮膚のあらゆる場所と、外の空間との区別が付かない。僕は静止している/踊っている。僕の筋繊維。息をしていれば私は完璧に近付いていく。冷えた香りがしている。薄い大気が好きだ。浅い呼吸。

 肯定感があるから楽しいのではなく、楽しいから全てを肯定できるのだと思う。楽しくないときにいくら全てを肯定しても、楽にはならない。特に言葉なんかで全て肯定しても。

 一番本質的なのは音楽。

 論理的なこと、歴史的なこと、理論、などを覚えて、忘れるのが理想だと思う。それから、自分の精神を隈なく使うこと。思考して、思考を超えた思考に行くこと。頭には論理的な部分と、分裂的な部分があって、僕は論理的な面が弱いと思っている。論理や数学はひどく大事だと、いつ頃からか思っている。
 最近、書くのが楽しい。それはギターやピアノを弾くのが楽しいこととリンクしている。限定された世界の中で、無限を目指すこと。宇宙の遠く、自分さえも及ばない場所に行くこと。それは、今これを書いているキーボードや、ギターやピアノの演奏によって可能だ。そう、僕は知っている。知っているけれど行けないことは、死ぬことよりも辛い。キーボードで書くことも演奏の一種だと思っていて、煙草を吸いながら、キーを流れるように叩けるときは至福だ。なのにまだ、そこに行けない。

 書くときはほぼ必ず音楽を聴いている。ヘッドホンも好きだし、スピーカーも好きだ。スピーカーで聴くときは、音をかなり大きくするのが好き。たまに音楽を聴くのも忘れて書いている。静謐を音楽にして。

 インプットがかなり大事。考え尽くすことも大事。

 音楽も、書くことも、全然楽しくなかった十年間。それ以前は、音楽と言葉が、死ぬんじゃないかと思うほど好きだった。死者の眼に映るものが見えていると思った。僕はおそらく躁鬱に近い。病名は躁鬱だけれど、実際どうか知らない。また、何の前触れもなく楽しくなってきた。でも、まだまだだ。僕の脳細胞は死にすぎた。読書をして、言葉を心の底の、混沌の、命の海に沈めなければならない。
 もしかしたら、言葉には限界があるのかもしれない。でも、言葉を仲立ちにして、遠くに、それから心の中心に行けるかもしれない。生きているのだから、行けるだけの場所に、最大限に遠く、深く、行きたいと思う。

 多幸感や、意識の変性には限界があると思う。自己と世界を認識する、その認識の仕方の転換が一番大事だと思う。気分や感覚や感情、快感は、絶対的に追い求めるほどには、大したものじゃない。
 それに、ただふわふわと気持ち良く浮いているだけじゃ意味が無い。現実や現代に接地していなくては、ただの夢遊病者として一生を終えることになってしまう。
 僕を現実に連れ戻してくれるものはいくつかある。例えば友人の存在。ニック・ドレイクの4枚のアルバムと、中原中也の全詩歌集(上下巻)。色で言えば赤。自傷すること。

 最近嬉しかったのは、ずっと前に無くしてしまったのと同じモデルの眼鏡(丸眼鏡だけど、レンズはやや楕円形)を、ネットで見付けて購入したことだ。眼鏡が好きだ。昔は眼が良かったので、度入りの眼鏡を掛けられなかったのが残念だったけど、今は近視になったので嬉しい。
 僕はジョン・レノンがとても好きで、昔眼が悪くなかったのに眼鏡を掛けていたのは、ジョン・レノンにあやかってのことだ。もちろん丸眼鏡で、ジョン・レノンが一時期掛けていたのと同じ商品を選んで買った。その眼鏡を無くしてから、今度はジョンが最晩年に掛けていた、白山眼鏡店のセルロイドの眼鏡を買うつもりでいたのだけど、通販では売っていないのでぐずぐずしている内に、歳月が経ってしまった。いずれ買いに行くと思う。でも多分、僕には丸眼鏡の方が似合う。また、同じ丸眼鏡を買えて良かった。

 ときどき強い孤独を感じる。

 ジミ・ヘンドリックスの音楽は熱に満ちている。ジャニス・ジョプリンもドアーズもそう。比較的最近の音楽(とは言ってももうロックのクラシックと言ってもいいけれど)だとホワイト・ストライプスの『エレファント』も。煙たい空気の感触と、密室感がある。

 音楽を聴いているときは、音楽が全て。

 正しいことって、案外どうでもいい。意味は特に無いことであっても、自分が生きていることや、何気ない、個人的な出来事を感じて、そして書いていたい。いつもとは違う風の匂いとか、毎日変わる空の高さとか、部屋の空気の密度とか。キーボードがかたかた言っていて、とても気持ちいいこととか。とうに夏休みが終わって、あまり聞こえなくなってしまった子供たちの声のこととか。電車の音や、車の音について。ステレオの青い電光表示の時計が好きなこと。ステレオの上には米山舞さんのビビッドな感じのイラストを貼っている。寒いことと暑いこと。少し気持ち悪いような、ハイなようなお香の匂い。クーラーの音と空気清浄器の音、少し薄い空気。……ヘッドホンを付けていると、他の何ものも関係ない、音楽の世界に行ける。

 この世が真実かどうか分からない。けれど世界が何であれ、すぐに途方に暮れてしまうことは変わりない。天国なんて無い。今この場所だけが素晴らしい世界になり得る。

 ぱらぱらと本を捲ることの快感。ずっと忘れていた活字の感覚。

 夜、ひとりでノートに向かっていると、孤立感が和らいでいく。万年筆が紙を擦るかさかさという音、空気清浄器(好きだな)の音だけが聞こえる。窓を閉めているから、高速道路の音も聞こえない。ステレオの青い電光表示が、現在時刻([2:25])を光らせている。LEDの電球の光。コンセントを通して、遠い、遠い、原子力発電所と繋がっている。手を擦り合わせると、熱すぎるくらいの体温を感じる。
 僕が、僕であり、僕でしかないことには、時々強い不安を感じる。だから、時には宇宙を感じたい。この街の四季や、月や空の高さだけじゃなくて。全てになりたいと思う。他のことは何も感じない。昼間の小さくて惨めな僕はとても遠い。ただ僕とノートとお気に入りの万年筆。この闇の時間に、僕は何処までも溶けていく……。


*2.2
 僕が僕である以上のことは書けない。「普遍的な自分」なんていない。誰かより偉い自分もいない。数学や科学、哲学の中には、真理はあるかもしれない。けれど、そこに僕はいない。理論や論理の中には、感情や四季が含まれないのと同じように。僕は「僕」を見たい。僕は、「君」を見たい。……昨日食欲無く鍋をつついていて、僕は鍋の中にしめじが浮いているのを見ていた。単にそれだけのこと。……個人的な生を生きて、個人的な死を死にたい。僕がひとりでいることには、何ら抽象的な思考は含まれない。それは端的な、事実だ。

 黄色い感じの、赤い感じの、青い感じの、細い、あるいは図太い音のギター。音楽の全体的な評価って宛てにならなくて、それはラブレターに点数を付けられないのと同じ。僕にとって、僕に向けて個人的に作られたと感じるアルバムを、他の人が好きだろうが嫌いだろうが、そんなことはどうだっていい。……小さな部屋が好きだ。小さな部屋を感じる音楽が好きだ。心の中の掠れたメロトロンの音。忘れられた灰色の交信。一枚を通して宝物のように感じられるアルバムが好きだ。

 階段の脇に、薔薇が咲くように光が射していた。僕はプラグに繋がって別世界にいた。痩せて、乾いて、硬い血管を抱いて、身体だけは他人が怖くて、そのままだったけれど。リノリウムの剥げかけた緑の階段に、膝を抱えて、僕は誰ひとりいない世界で、光に包まれていた。内面の光だけが、無限の希望だった。僕は、死のうと考えていたんだけど。

 クラシック音楽は頁の裏側。詩の果実。

 ロックを黄色い音で聴きたいときもある。酸っぱい音で聴きたいときも。大体のときは、モノクロ(単色)で、濃いセピア色か白黒の音で聴くと、頭の中が微熱で満たされて気持ちいい。

 ギターの音は消えても、空中に残り続ける。それから、世界の裏側の虚空に。そこに挟まれた本に。ここにある、死んだ後の図書館に。

 好きな音楽が増えるごとに、僕の世界は拡がっていく。そう広い世界でなくてもいい。古い石段や、白亜の壁に挟まれて曲がりくねった小路のある、水の街くらいでいい。ときどき都会が恋しくなるけれど、僕の帰る街は、いつも小さな静かな街だ。ニック・ドレイクのドキュメンタリーにそういう街があった。
 僕の住みたい街は、ギリシャの小さな街のようでもあるけれど、ギリシャは僕が思うより、陽射しが強そうで、光や刺激の苦手な僕には合わないかもしれない。イギリスのケンブリッジやその界隈、ロンドン、パリ、それからアイルランドの首都のダブリン。ベルリンもいいなと思う。それからイギリスのムーア(ヒースが一面に咲いた荒野)の真ん中の、そう大きくない家に憧れる。ケンブリッジ大学の図書館には、魔術書の迷路みたいなイメージがあって、いつかそこに(たしか学生以外にも開かれているはず)に通いたいとか夢想する。例えば研究生という名目で、出入りが可能になるらしい。
 僕が知っている街は有名な場所ばかりなので、世界には本当はもっとこぢんまりとして静かな、美しい街があるかもしれない。
 都市にも憧れていて、特にカナダのトロントが、本当に美しいと思う。ニューヨークのアパートもいいな。東京も、雑然としてはいるけれど、いずれは住んでみたい。日本で今一番住みたい場所は西宮なのだけど。何故なら神戸や大阪の喧噪からは遠くて、空気がどことなく冷たくて甘いからだ。
 個人的な、心の街に流れる音楽が好きだ。その街は、音楽と共に、ほんの少しずつ僕の理想の街となり、永遠の国となる。


*2.3
 優しい時間が恋しい。僕は音楽と言葉が大好きだ。人は多分、簡単に地獄に落ちられる。当たり前の日常だって十分に地獄で、今この瞬間も全世界で孤立したたくさんの人々が、自殺を試みようとしている。儚い希望にすがって、何とか惨めな生を長らえている人だっている。僕は三十分前、首を吊ろうと考えた。
 でも、この世界からいっとき離れられるなら、死ななくてもいい。

 タバスコの瓶を裏返すと、こう書かれていた。
 「100万羽の小鳥、飛び立つ」と。

 文学と音楽が、僕を生き長らえさせてくれる。教義的な言葉や、論理は要らない。僕が欲しいのは人間の感情。ロシアやイタリア、アメリカの小説があると落ち着く。

 古い窓ガラスに、霜の花が咲く冬。
 街が一面光に満たされ、噴水の水しぶきが白昼夢のように輝く夏。
 僕はそこにいない。
 僕は暗い暗い、心の内側でありながらあまりに遠い、永遠の夜中にいる。
 それともいつしか、光が光で満たされる?
 僕は西暦3000年に出版された聖書を読んでいる。
 『ロリータ』と『不思議の国のアリス』を読んでいる。
 アニメみたい。
 映画を見ることは嫌いだ。
 僕は全てを夢見る。僕は全てを読む。
 何もかもに血を塗る。
 言葉、言葉、言葉……
 全てが沈黙するとき、
 世界で最後のピアノの音が鳴り終わるとき。
 僕は、その時を生きている。
 永遠に開けられない扉の前で、
 窓の外では、おびただしい数の青い馬が駆けている。

 美しいものは、美しい理由を与えてくれない。割れたグラスを台所の窓辺に置いて、それに陽が当たってきらめくのを、朝、煙草を吸いながら見ていたい。――折り畳むことが出来る、蝶の本。血で描かれたカモメのシルエット。夜に浮かんでいる。

 ……優しい時間が恋しい。静かな夢のように活字たちが呼吸する、書庫の中で眠りたい。小さな街が恋しい。誰か、何処か、僕の為に存在し続ける場所があるはず。希望。探し続ける。
 僕はここから脱出したい。


3.1
 僕は23年間病院に通っている。初めは過敏性腸症候群と言われ、ロペミンだったかコロネルだったか、名前は忘れたけれど、たしか腸の薬を飲んでいた。段々鬱がひどくなってきてから、処方薬がどんどん増えてきて、僕は今日まで、ありとあらゆる薬を飲んできた。前のお医者さんに、僕の病名を訊いたら、「うーん、由比良さんは、病気というより詩人ですねえ」と言われて、僕も少し嬉しかったから、病名のことはうまいことはぐらかされてしまった。
 今のお医者さんになって、改めて病名を訊いたら、「統合失調症と躁鬱病と自閉症スペクトラムの併発です」と真面目に言われて、しかも僕には数年間、てんかんの症状もあったし、自分自身では僕は境界性人格障害だと信じ込んでいた。唐突に脳内が真空になってしまったみたいな虚無を感じて、踞ったまま動けなくなったり、孤立感や、ODや自傷の欲求に勝てないことや、自殺願望や、離人感や疲労感や、あと声が出ないことなど、いろいろなことが辛かったので、これら全てを解消することは、一生掛かっても出来ないような気がしていた。
 12歳の頃から、今に至るまで、いろんな種類の苦痛を体験してきたけれど、一番辛かったのは、離人症と幻覚だ。幻覚が出たということで、病名に統合失調症が付け足されている。幻覚は、本当にリアルで、自分の感覚だけではそれが病気のせいだとは、まず判断出来ない。僕は、統合失調症のことについてよく調べていて、自分に出そうな症状を予習しておいたので、幻覚を完璧にリアルに感じつつ、でもこれは壊れた頭が見せてるんだな、といちいち意識的に訂正していた。

 あと、突拍子もない連想が起こってしまう。僕があまりに自室に引き籠もっているので、父が桃の缶詰を持ってきてくれたんだけど、その父に向かって大真面目に「この桃缶の声優は、たしかあしたのジョーの丹下段平の声の人だったよね?」と言った直後に、缶詰が喋る訳ないと気付いて誤魔化した時があったけど、父には少々衝撃だったかもしれない、と後で思った。
 それから、ベッドの横に放り出したダッフルコートを見て「あ、そうか。ダッフルコートは討論番組だったな」と思って、しばらくコートの模様の中で喋っているコメンテーターの言葉を義務的な感じで見ていたら、ふと我に返って、このとんでもないシュールな発想は、ちょっと普通じゃないと思って、メモしておいたこともあった。幻覚も妄想も、全然楽しくはないし、世界全体が僕の為のホラースポットに変化している感じなんだけど、これはお化け屋敷みたいなもので、出口はあると思っていたので、絶望まではしなかった。でも、半年くらいお化け屋敷の中にいたような気もする。
 お化け屋敷を現実だと信じてしまうと、もう一生そこから出られないのではないかという懸念があった。階段を上がって、ふと天井を見上げると、血塗れの上半身が逆さにぶら下がっていたり、ベッドや机の下に気配を感じて、覗き込むと、宇宙人やら赤ん坊やらが、こちらを見上げていたりする。どこかのB級映画のシーンを適当に詰め込んだような世界。そういう幻覚に出会うたびに、出来るだけ平静に「また脳の病気だ」と言っていたら、その内、「いや、病気じゃない」という低い声がプラスされるようになってきて、これはちょっと怖かった。
 雨戸ががたがたいう音がどういう訳か、僕には何の関係もない、イタチとネズミの日常会話として聞こえたり、夜中椅子に座っていると、外から僕を殺そうとする二人組の押し殺した声が聞こえて、ひょっとしたら本物だろうかと疑ってしまったりもした。そういうエピソードのひとつひとつは、奇妙ではあって、いかにも病気っぽいけれど、実際には僕の精神と外界の全てを満たし尽くした不穏な感じの方が、幻覚そのものよりもずっと怖い。
 そんな恐怖の中では、ヘッドホンで音楽を楽しむなんて不可能だ。ニック・ドレイクの曲を聴いてみても、優しいニックの声に、どうしても悪意が含まれていると感じてしまうし、音楽が呻きみたいな音に変化して、僕に何かを伝えようとしている、と感じる。音楽と幻聴がミックスされて、曲を自然に認識することが出来ない。
 幻覚で怖かったのは、ひとつはシャワーを浴びると、水のはねる音や排水溝の低い音の全てが声に聞こえて、四方八方から「おい」とか名前を呼ばれる。「幻覚だ」と気にせずにいると、「無視するな」とか言い始めるので「黙れ」と心の中で言うと、さらに明瞭に「おい」「無視するな」とたくさんの声が、抑揚を全く欠いた声で何百も繰り返されるので、少しシャワーを浴びるのにも、すごく気疲れして、病院の日にもシャワーを浴びないことが多かった。寝間着のままで出かけたりした。
 もうひとつは、ベッドに横になっていて、外で猫がぎゃーぎゃー鳴いているな、と思っていたら、突然僕のお腹の上に、猫がぼとっと落ちてきたときだ。飛び起きて、必死になって枕で猫を押さえつけていたら、しばらくして何の音もしなくなった。その枕を捲るのに、ものすごく時間がかかった。幻覚に決まっていると分かっているけれど、猫を潰した感触が手に残っているし、幻覚であれ、もう一度猫と再会するのは恐怖でしかなかった。その時は冷静になれなくて、幻覚だろうが、殺せば死ぬだろう、窓から捨ててやろうと決意して、一気に枕を裏返したら、意外なことに、何にもいなかった。

 そういうホラー的な世界にいて、僕は数ヶ月で何故かそこから抜け出せたけれど、実際に幻覚に悩まされている間は、そのことは、誰にもひと言も話さなかった。狂ってると思われたり、問答無用で入院なんかになったら、もっと悪化しそうだったので、ただひとり、じーっと暗い、恐怖のプールの底にいた。幻覚が去ってから大分経って、笑い話に出来るくらい平静を取り戻してから、幻覚について人に話したり、本当に怖かった、と冗談半分くらいの口調で言ったり、書いたりした。ここに書いたエピソードは一例なんだけど、ともかく幻覚の世界の中心にいながら、しかも全部幻覚なのだという意識を強く持ち続ける苦行は、二度と体験したくない。虫がちょっと見える、ってレベルじゃなくて、身体中が毒虫の巣になっていて、噛まれると本当に痛かったりする。

 でも、あの憎悪に満ちた幻覚の世界から、一生出られない人が少なからずいるのだと思うと、本当に気の毒でならない。気の毒なんて言葉じゃ追いつかない。ひとりひとりが、自分だけの全世界を生きている訳で、統合失調症の人は、全世界が悪意と恐怖に満ちた場所にずーっと閉じ込められていて、しかもその恐怖を誰とも共有出来ない。

 本当は離人症のことについて多く書きたくて、考えていたんだけど、離人症の辛さを説明するのは、とても難しい。ふわっとした感じとか、酔った感じとは全然違う……。

 僕たちは運や実力だけで生き残ってきた訳じゃない。太古の昔から受け継がれてきたのは、勝利の歴史ではなく、きっと後悔や怖れや慢性的な疲れ、消すことの出来ない暗い記憶。遺伝子にはたしかに自殺のスイッチがある。人類の歴史とは、傷が集積されてきたことの歴史だ。誰も、心の流血を止めることが出来ない。胸の中ではいつも自殺のシグナルが光っている。愛や寛容の温度を大きく上回る、孤独の冷たさ。ある瞬間ボタンがカチリと外れれば、全ては終わってしまう。死んでしまう。それとも死んだように生きるようになる。その二つに違いは無い。「愛」だとか「倫理観」だとか言う、大切だった言葉を冷笑混じりにしか言えなくなったとき、人は命を失う。愛とは憧れの結晶だから。決して憧れを取り落とすことなく生きることが、僕たちにとっての倫理だから。もう何にも憧れないとなったら、僕は一体何の為に生きるのか? 多分、生きていけないと思う。


3.2
 近頃の不安。ひとりでいても、ひとりの気分でいられることの少なさ。幸せは知っているはずなのに、まるで幸せから見放されているような感覚。勝手に僕が不幸な気分に閉じ籠もっているだけだって、知ってはいるつもりだけど、身体が縮こまっていて、頭の表面がひりひりしていて、うまく思考が纏まらない。静けさが恋しい。
 現代詩フォーラムは、怖い人がいないので、過ごしやすい空間だ。それでも、サイトを訪れるのには、いつも少し、躊躇を感じる。この頃、いっぱい詩を投稿していたのが、まるで自分の恥部を晒しているようで、だったら辞めればいいんだけど、辞めたら本当に自分が弱くなってしまう気がする。ポイントが入っていたり、褒められていれば、一瞬は嬉しいけれど、すぐに、自分が嘘を吐いている気がする。本当は、もっともっともっと正直に書きたいのに、今僕は、読まれることを考え過ぎていて、自分の詩をとても甘くしていると思う。楽しく、自然に、心の底からの声だけを書きたい。ずっとずっと緊張している。

 けれどまた、僕は幸せな時間を知っている。だから生きられる。大好きな人がいる。人との繋がりがある。孤独の中で孤独に死ぬなんて思っていない。僕は、消えても、死んでも、その繋がりの中へ帰っていくだけだ。でも出来れば、生きたままで幸せになりたい。


3.3
(すごくメンヘラ的なことを書きます。痛々しい精神状態については、もうあまり書かないつもりでいるのですが、この文章の文脈としては、ボーダーだとか自傷のことをまず書くのが自然だと思ったので、敢えて消さないことにしました。)

 僕は楽しくない。楽しさを感じない。もう12年間、僕は「楽しい」を感じていない。笑っていても、冗談を言っていても。父は、僕がTOEICでいい点を取ったらお金をくれるという。何と50万円も。それでも僕はやる気が無い。
 もう三ヶ月、何の勉強もしていない。一ヶ月、まともなものを食べていない。一日一食、お茶漬けなどを無理に胃に流し込んでいる。体重は8kg減った。それ以前は食欲が旺盛で、68kg以上もあったのだけど、もう60kgを切りそう。
 とても疲れている。死にたいと思うけれど、毎日詩を三つずつくらい書いている。頭の中では、僕には何の可能性も無いという言葉が、ずっと渦巻いている。
 ブログにも詩ばかり書いているから、きっと毎日の閲覧者数は、ゼロ人とかなんだろうな、と思っていたら、毎日コンスタントに10人以上の人が見てくれていて、とても有り難かった。12年以上前には、異常なくらい熱っぽくブログの記事を書きまくっていて、毎日のアクセス数が1000を超えたりしていた。そしてはてなダイアリーの「自傷」カテゴリのランキングでは、一位をキープしていた。それさえも嬉しかった。
 夜中じゅう起きてて、楽しさのさなかで、何時間でも書きまくってた。毎日腕を切ってて、身体に針を刺しまくって、安全ピンをあちこちに付けて、皮膚をライターで焼いたりして、OD して、なのにすごくハイで、50針以上は縫っていて、でも腕が凹むくらい切った傷でも縫わなかったことも多くあった。
 左腕は今は満遍なく切りすぎて、ひとつひとつの傷が分からないケロイド状になっている。ごつごつした樹の皮みたいになっている。すごい貧血のまま献血に行ったり、血を見るのが好きだったし、それ以上に痛み、……と言うよりは、切っても痛みを感じないことが好きだった。すごく気持ち良かった。
 手首の傷が一番深い。躊躇い傷ではなく、全然躊躇ってない傷だと、今見ても分かるし、腱を切って、手首に三つあるらしい神経のひとつを傷付けたので、左手の親指の痺れは今でも残っている。寒いときにぴりぴりするのは構わないけれど、ギターを長い時間引いていると、親指が痺れて、段々感覚が無くなってくるのは、少し困る、……と言いつつ、そのことをちょっと格好いいと思っている。
 ……つまりは僕は典型的なメンヘラで、だから僕は、自分は境界性人格障害(ボーダー)なのだと思っていたけど、病名は双極性障害だった。友人も母も、僕は明らかに躁状態だったと言うんだけど、僕は自覚が無い。どこまでも楽しくて、これこそが健康じゃなくて何だろう、と思っていた。
 でも言動がひどかった覚えはあって、会う人みんなに「好き」と言っては、すぐ「死ね」と言ってた気もする。本当に、人がものすごく好きになるんだけど、すぐに他人がみんな最悪に思える。バイトは三回して、三回とも店長と喧嘩をして、クビになった。一週間ももたなかった。
 高校時代と大学時代、それからフリースクール時代に出来た友人たちとは見事に疎遠になって、今でも、僕が「大好き」だと言ってはばからない、一番の友人だけが残ってくれた。僕は彼に一番迷惑を掛けた気がする。しばしば言われることだけど、病的な精神の持ち主は、自分に良くしてくれる人にほど、ひどく当たることが、とても多いらしい。
 傷だらけの腕とか流血をわざわざ見せつけたり、いきなり彼の部屋に女の子を連れ込んだり、騙して強烈な睡眠薬を彼に飲ませて、彼がかなり変になったのを見て、けらけら笑ったりしてた。真夜中に彼に電話をかけて、何時間も、彼の言葉を全く聞かずに、話し続けていたこともあったらしい。僕はそれを覚えてないけれど、取り敢えずアドレス帳の一番上から下まで、みんなに電話を掛けたことは覚えている。誰とでも親友になれるという確信があったからだ。でも、現実的には、親友になるどころか、ほとんど皆に嫌われた気がする。着信拒否もされた。
 そんな危なっかしい中でも、友人は僕をひたすら心配してくれて、ネットで躁鬱や人格障害についてよく調べてくれたり、僕が酷いときにも怒ったり呆れたりせずに、やんわりと「すまんけど、今日は帰ってくれ」とだけ言ったり、「ともかく君が死ぬのは困る」と言ってくれたりした。はっきり言って、彼がいないと僕は死んでいたと思う。でも、僕の中の少しの冷静な部分が、友人のおかげで、段々大きくなってきて、彼にもう迷惑を掛けたくない一心が段々芽生えてきたと思う。
 その気持ちだけで、僕は随分人間らしくなれたと思う。本当に、僕は人を人だと思っていなかった。精神の病気を治すのには、服薬するよりも、誰かからの、継続的な、変わらない愛情が、本当は不可欠なのだと思う。しばしば「病気の人からはとにかく離れろ」という言葉をYouTubeなんかで見るけど、でもそれで、病気の人の方はどうなるんだろう?、といつも思う。
 僕は親にもほとんど見放されていた。少し変な言動をすれば、警察を呼ばれ、ハイになっても、もちろん自傷してもODしても、とにかく病院に連れて行かれ、一度は母から「もう、どうしても付き合いきれない」と言われて、強制入院になったりもした。入院中は、眠らずに音楽を聴きながら、病室の壁に詩を書いていた。

 僕は、どう考えても友人のおかげで、人を信じるようになったと思う。少なくとも、心から信じられる人が、この世に絶対に存在することは、信じている。彼がいなかったら、他人なんて、みんな、本当にどうでもよくなってたと思う。殺してたかもしれない。何の感慨も無く人を殺せる自信はあったし、人を傷付けることが愉快なくらいだった。
 僕が、一番目を覚まされたことは、友人から「君がいつまでもそのままだったら、俺は君の友達をやめる」と言われたことだ。そのときは、本当に頭の中がさっと冷たくなって、本気で、病気をやめようと思った。他の皆は、適当に僕に合わせて、笑って、呆れて、そっと離れていった。
 冷静になって、時々自己嫌悪もし始めて、それから人間も捨てたものじゃない、と思った。段々、本当に人が好きになってきて、嫌いとか、どうでもいい、が薄れてきた。今でもそれは続いている。「人間が好き」という言葉自体は、胡散臭いし、嘘が混ざっているから嫌いだけれど、「人間が好き」という気持ち自体はとても好きだ。
 ここ数年、僕はあんまり辛いから、仏教的な考え(それと少しのポストモダン的な考え)に縋ってみようか、と、多分あまり僕らしくない考えを起こしたこともあったけれど、それってひと言で言えば「全ては自分の思い込みだ」という考えで、でもその考えには他人の存在の美しさとか、愛情の要素が欠けていると思ったから、すぐに却下した。
 例えば詩は、他人への、繋がりとか、それを求める気持ちとか、それ以上に、好きという気持ちが無いと、詩にはならないと思っている。それはもちろん、完全に思想的だったり、閉鎖的な詩もあるけれど、それにしても社会的なひねくれみたいな閉鎖じゃなくて、静かな孤独の中でしか見えない、ある種の、人との共通の何かを感じる心が含まれている方がずっといい。眠りの中での両性具有のような。
 単に楽しいだけでもいいと思う。「楽しさ」の一番の要因は、「自分は孤独じゃない」という確信だと思うから。表面的な繋がりとかじゃなくて、たとえひとりぼっちでも、自分は孤独じゃない、何故なら孤独とは、自分勝手に自分の領域を限定して、その中に自らを閉じ込めることだと思うから。ぽつんと孤立したこの身体と、そこに嵌め込まれた小さな脳とか、脳の考えだけが自分ではない。
 (小さな)自分と、自分以外の世界を分けて考えて、自分以外のあれこれに批判的になるほどに、自分という殻は強固になる。殻なんて、自分なんて、壊して、消してしまえばいい。そしてそれまで、それこそが自分だと思い込んでいた「自分」なんてものがゼロになったときには、僕には「全て」と、そして「全ての人たち」だけが残ると思う。ここにあるこの瞬間が全てであり、自分が全てであり、他人が全て。自分と他人との間に、絶対的な隔たりなんて無い。世界は、常に一部ではなく、全てとしてあると思う。
 自分の痛みとか不安とか、憎しみだとか恐怖だとか、そんなものが全てではない。そんなのは、思想なんか全然取り入れなくても分かる。子供だって分かるし、要するに、(自分が定義した)自分に拘らずに、今まで自分以外だと思っていた全てを、出来れば好意的に受け入れたときには、もう、全て以外は何も残らなくなる。全ては、いつでもあるし、あり続ける。
 僕は、「世界」に興味がある。世界を感じることは最大の快感だし、幸せで、そこには不安も恐怖も、まっさらに、何にも存在しない。人たちがいて、心があって、……ただ単に、小さな自分から出られるなら、僕は個人的に、それ以上世界になにひとつ要求しない。

 書くことだけが残れば、それでもいいなと思う。表現と伝達。祈りは届くと思っている。世界に影響を与えるという意味ではなく。また、祈りは実質、何かを変えることは出来ない。いくら祈っても、例えば嫌な人が、急にいい人になったりなんかはしない。それでも、どうしてか、僕は祈りには意味があると思っている。
 でも、それはそれとして、表現しなければ、伝達しなければ、何も変わらない。変えられない。多分、表現しても、あんまり何かを変えることは出来ないし、何も変わらないだろう。また、何か変えることを目的とすることは、結局はまた、意固地な自分に逆戻りすることだ。世界を変えようとか、意見しようと思った途端に、自分と世界の分裂が始まって、自分勝手に孤独になって、孤立を感じてしまう。
 何かを変えようとするならば、いいのは、自分が好きなことをやり続けることだと思う。誰かに好かれる為ではなく。みんなが本当に、好きなことをしていて、幸せであるならば、世界は変わるだろう。それは理想論であるとしても。悪は存在するとしても、悪はとても孤独で、表面的な、みみっちい力でしかないと思う。幸せの中での、ほとんど先天的な平和の感覚には勝てない。
 曲がった考えを、頭から「間違っている」と切り捨てることは出来ない。僕だって相当間違っている。細かく見れば、間違っていることや、間違っているかもしれないことは、とても多い。多分それは無くならない。いくら脳だけが自分じゃないと言っても、精神病院は無くならない。僕は時には肉をむしゃむしゃ食べる。僕が勝てば、誰かは負ける。いろいろ間違った社会と、いろいろ間違った自分を生きるしかない。それにも関わらず、僕は幸せと平和はここにあると思っているし、まるで天国のような場所や時間が存在すると、本当に思っている。天上にある、遠い天国ではなくて、今ここにある天国。


4.4
 言葉には匂いがある気がする。本を読みながら僕は、ずっとその匂いに浸っている。ただ本をじっと抱いている時もある。弟は、本は本屋で読めるから買わないと言っている。僕は買わないと、本を読めない。本屋では緊張して、心拍が邪魔をして、字が読めない。静かに自分の部屋で本を読むのが好きだ。自分の本を、宝物だと感じる。

 脳科学には全然詳しくないけれど、脳がすごく働いている状態と、全然働いていない状態を行き来出来たら面白いだろうな、と思う。創造性というものは、主に右脳にあるのだと、昔から思い込んでいたから、出来るだけ、言葉じゃなくてイメージで考えようと意識していたし、そもそも僕は言語力があんまり高くなかったと思う。幸せな感覚も右脳が司っているのかどうなのかは知らないけれど、仮にそうだとしたら、読み書きが面白いのは、どうしてだろう? 言語野の大部分は、左脳にあるらしいのに。
 言葉と幸せが共存出来るとすれば、左脳の言語回路を使うことでも楽しくなれるのか、それとも右脳にも言語野があるのか、そのどちらかだと思う。あやふやな知識で、あやふやなことを言っているのだけど。何となく僕は右脳に言語野がある気がしているし、もしかしたら(たしか)身体の運動を司る小脳とか、あるいは原始的な、本能とかがある(?)脳幹の辺りにも言葉があるんじゃないかと思う。
 人間は道具を使う動物だ。何ひとつ道具を使わないとしたら、人間ほど無能な動物はいないと思う。道具を使う前の原始人は、よく生きられたものだと思う。僕は道具を使って生きている。今これを書いているキーボードも、ディスプレイも、そして電気も、僕が作ったものじゃない。言葉だってそう。僕が言葉を作ったところで、誰にも伝わらないなら、それは言葉とは言えない。案外、何ひとつ道具を持たない方が幸せかもしれない。けれど今どき、それはほぼ不可能だから、今の人は、道具を使って幸せになるしかない。

 「自分」「自分」ばかりで精一杯の、今の僕に書けることなんて、ほんのわずかだ。まだまだ僕は理屈を書いているばかりだ。何も気にならない場所。不安も、恐怖も無い場所。それが確かに存在することを、僕は知っている。完璧しか欲しくない。完璧な快感、楽しさ、美しい瞬間、完璧な人との繋がり、……。
 それは得られるものではなく、取り戻すもの。もしくは単に、もう既にある完璧に触れること。それだけのことだと思う。それがけっこう難しい、と感じるのだけど。

 まだまだ書きたいことがある。楽しくなりたい。楽しいことについて書きたい。


*断片
 二年前に、哲学者の井筒俊彦さんの本をよく読んでいた。井筒さんが尊敬する人として西脇順三郎をよく挙げていたので、興味を持って、岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を買ったのだけど、2年間、ほぼほったらかしだった。よく分からない単語がだらだら並んでいるという印象しか持てなかった。
 この頃になって、急に西脇順三郎の詩がきらきらと輝きはじめて、字面を眺めているだけでドーパミンとエンドルフィンがいくらでも出てくる感じがする。あまりに面白いので、5冊続けて、西脇順三郎の詩集を買って、すっかり依存症のようになってしまった。
 西脇順三郎を読んでいるときの独特な感じ。読書とは、活字を想像して噛み砕いて、吸収していくことだ、と一応仮定するなら、西脇順三郎の詩を読んでいるときは逆に、こちらから字面に向かって、自分がほどかれていくような感じがする。どんどん自分が透明になっていく。
 自分という枠組みを取り払ったところに本当の自分がいる。自分って言うのは曖昧なものではなく、変幻自在なものだ。世界と同様に。例えば地球が、どんなに様変わりしても、どんなに暴力的な側面があろうとも、どんなに楽園のようであろうとも、その全ての様相の総体として、揺るぎなく地球であるように。
 環境破壊も戦争も、砂漠の拡大も、地球だけの話じゃない。自分の中に全てはある。自分の外にも全てがあって、決して自分の皮膚の中だけに自分がいる訳じゃない。何もかもが自分だし、それは同時に何もかもが他者なんだということ。


 左手に右手の爪を立てつつ書いている。自己嫌悪を持たない人なんて果たしているだろうか? 生きたいと思う。痛切に思う。花が枯れても、まだあと幾つもの春を越し続ける草のように。僕はサナギのまま腐ってしまった蝶? 自分では分からない。まだまだ飛べるなんて希望にしがみ付いているのか、それともいっそ、地面に落下して、土と一緒にぐちゃぐちゃになってしまいたい。このまま乾燥して干涸らびるのは嫌だ。


 全ての苦労は報われる。


 何だろう? この懐かしい感じ。この秋の、秋らしい感じ。中原中也の全詩歌集の表紙を見ているだけで、僕は僕、という感じがする。胸がずきずきする。


 12年前に買った、Björkの新しいアルバムが、今月に入るまで、いいのか、悪いのか、好きなのか、嫌いなのかも分からなかった。頭の中の不安な騒音の方が大きくて、自分が聴いている音楽が音楽であると認識されなかった。何にも感じず、恐怖だけがあった。鬱状態は10年以上続いて、その間、Björkはさらに3枚のアルバムを出したけれど、今日に至るまで、どれがどういいのか、全然分からなかった。2015年の2月に買った『Vulnicura』は、あまりに恐ろしくて、1曲目の途中から先を聴いたことが無かった。


 ネットワークの一部になること。それは大きな喜びだ。シナプス一個には何の意味も無いけれど、神経網には意味がある。


 泣いたって、分かってくれない。泣いたことだけ分かってくれる。泣いた泣いた、と言われる。病気なんてそんなものだ。泣いたら、泣かない薬をくれるだけ。


散文(批評随筆小説等) メモ1 Copyright 由比良 倖 2023-09-28 11:21:52
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