陽の埋葬
田中宏輔


 術師たちが部屋に入ってきてしばらくすると、死刑囚たちの頭に被せられていた布袋が、下級役人たちの手でつぎつぎと外されていった。どの死刑囚たちにも、摘出された眼球のあとには綿布が装着され、その唇は、口がきけないように上唇と下唇を手術用の縫合糸でしっかりと縫い合わされてあった。見なれたものとはいえ、術師たちはみな息をのんだ。嗅覚者は、自分の右隣に坐った男を横目で見た。男は術師たちの長とおなじ、幻覚者であった。嗅覚者は、以前に何度か右隣の男と言葉を交わしたことがあったが、以前の様子とは少し違った雰囲気を感じとっていた。男の前に坐らされていた死刑囚が頭を揺さぶった。眼があったところに装着されていた綿布が外れて落ちた。
「よい。」と言い、右隣の男は手をあげて、一人の下級役人があわてて近寄ろうとするのを遮った。男が呪文を唱えると、下に落ちた綿布が床の上をすべり、死刑囚の足元からするすると、まるで服の内側に仕込まれた磁石に引っ張り上げられたかのようにしてよじのぼると、もとにあった場所に、少し前までは眼があったところにくると、ぴたりととまった。嗅覚者の鼻が微妙な違いを捉えた。以前に男が術を使ったときに発散していたにおいとは異なったにおいを。嗅覚者の鼻が、異なるにおいを感じとったのだった。嗅覚者は、隣に坐っている男をよく見た。男の身体全体を、ある一つのにおいが包み込んでいた。顔はおなじだが、前のにおいとは違ったものであった。嗅覚者の鼻は、また死刑囚たちの身体にも、ふつうの死刑囚たちとは異なるにおいを感じとっていた。嗅覚者の鼻は、魂をにおいとして感じとることができるのであった。目の前に坐らされた死刑囚たちはみな暴力的な人間ではなかった。生まれつき粗暴な人間には、粗暴な人間特有の魂のにおいがあった。死刑囚たちは、おそらく思想犯だったのであろう。最近は、図書館の死者たちを解放するのだといって、破壊活動をする思想犯たちの数が急増しているらしい。国家反逆罪は、もっとも重い刑罰を科せられる。もちろん、死刑である。処刑される前に、眼球と内臓の一部が取り出され、再利用されるが、さいごに人柱として利用される前に魂を抜かれるのだった。いや、魂の一部を抜かれると言ったほうがより正確であろう。術師たちによって、魂の一部分をエクトプラズムとして取り出されるのだった。術師たちは、術師たちそれぞれ独自の方法によって、人間の魂からエクトプラズムを取り出すのだが、その取り出され方によって、エクトプラズムの質と量が異なるのであった。ある程度の量をもった質のよいエクトプラズムは、ほぼそのまま、見目麗しいホムンクルスとして成形される。平均的なふつうのエクトプラズムは、別の日に、おそらくは、翌日か、翌々日にでも、この施術室のなかにはいない別の術師たちの手によって抽出され、さまざまな用途に合わせて加工されるのであった。また、平均以下の、あまり出来のよくないエクトプラズムも、それらの術師たちの手によって処分されることになっていた。そして、質のよいエクトプラズムのなかでも、もっとも質のよいエクトプラズムから、死体を生かしておく霊液がつくられるのであった。図書館の死者たちが生きつづけて、われわれの文化の礎となっているのも、これらの霊液のおかげである。永遠に生きつづける死者なくして、文化など存続できるものだろうか。自然もまた、術師たちのように、さまざまなものたちの魂からエクトプラズムを抽出して、さまざまなものをつくり出す。妖怪や化け物といったたぐいのものがそうである。自然の何がそうさせるのか、いろいろ言われているが、もっとも多い意見は、時間と場所と出来事がある一定の条件を満たしている場合においてである、というものであった。ただし、術師たちの派閥によって、その時間と場所と出来事の条件がところどころ違っているのだが。ところで、歴史的な経緯からいえば、自然もまた、というよりも、術師たちのほうこそが、また、であろう。自然がつくり出した妖怪や化け物たちを、自分たちもまたつくり出したいと思って自然を真似たのであろうから。
 嗅覚者は男についての噂話をいくつか思い出した。月での異星人との接触。その異星人との精神融合における数日間の昏睡と覚醒。嗅覚者は、ふと、イエスとラザロのことを思い起こした。イエスとラザロも、一度は死んだのだ。死んで甦ったのだった。死んだからこそ甦ることができたとも言えるのだが、そもそものところ、はたして、二人は、ほんとうに死んだのだろうか。もし仮に、二人がほんとうに死んだとしても、二人に訪れた死は、同じ死なのだろうか。同じ意味の死が、二人に訪れたのだろうか。二人の死と復活には、違う意味があるのではないだろうか。そうだ。たしかに、象徴としては、二人の死と復活には、意味に違いがあるだろう。しかし、事実としての死が二人に訪れたのだとしたら、どうだろう。死の事実も違うのだろうか。いや、死は、ひとしく万人に訪れるものであって、それらの死は、すべて同じ一つの死だった。一つの同じ死なのだ。二人が、ほんとうに死んでいたとしたら、その死んでいた状態とは、死体となって存在していたという意味なのだ。死体となって存在していたのだ。しかし、その死んでいた状態には、いったいどのような意味があったのであろうか。その死んでいた期間には、いったいどのような意味があったのであろうか。かつて、このことを、ほかの術師仲間と話し合ったことがあるが、その相手の術師は、その当時、死んでいた期間とは、ひとが死んだということが、遠く離れた地に伝わるまでの時間だったのではないかと言っていたのだが、どうなのであろうか。しかし、それにしても、その状態が、新しい生に必要だったのだろうか。死んでいた状態の、死んでいた期間が。いや、なぜ、そもそも、わたしの脳裏に、イエスやラザロのことが思い浮かんだのだろうか。男が洞窟で甦るイメージをあらかじめ持ってしまっていたからであろうか。たぶんそうなのであろう。この男は死んでいたわけではなかったのだ。死に近い状態であったとは聞いていたのだが。しかし、男の魂のにおいは、まったく別人のもののようだった。そんなはずはない。そんなことはあり得ない。もしも、この男が同じ人間であったなら、どのような状態であっても、魂のにおいは同じもののはずだ。仮に精神的な動揺で別人のように様変わりしようとも、魂のにおいには変化はない。あるとしても、ごくわずかなものだ。たしかに、その表情には、おかしなところなど何一つないのだが……。この男の表情を読みとることは、嗅覚者にもたやすいことではなかった。当の詩人は、嗅覚者の視線を感じてはいたが、自分に顔を向けている嗅覚者のほうには振り向かず、嗅覚者の顔を思い浮かべながら自分の精神を集中させた。嗅覚者の瞳孔が瞬時に花咲くように開いた。詩人は、嗅覚者の見ている映像を、自分と嗅覚者のあいだに浮かべた。洞窟のなかに横たわった詩人が身を起こそうとしている場面であった。詩人は、なおもいぶかしげに自分の顔を見つめようとする嗅覚者の瞳孔を、瞬時に花しぼませるように縮めた。嗅覚者は、ふたまばたきほどした。嗅覚者の目には、死者がまとうような白い着物を着た詩人が洞窟のなかで起き上がろうとしている映像が見えていたが、すぐに非映像的な抽象概念に思いをめぐらせた。イエスとラザロの死の意味についてだった。術者の長が立ち上がった。
「それでは、はじめよう。」という、術師の長の掛け声をもって、術師たち全員が立ち上がった。術者たちは、椅子に縛り付けられた死刑囚たちの魂から、それぞれの持つ術で、エクトプラズムを抽出しはじめた。嗅覚者が手をかざしている死刑囚の身体からは、魂のにおいが泉の水のように噴き出した。嗅覚者のかざした手のなかに、それらの憤流が渦巻きながら凝縮していった。また、詩人の前に縛り付けられていた死刑囚の縫い合わされた口腔のあいだや鼻腔から、綿布が装着された眼窩から、細長い白い糸がつぎつぎと空中に噴き出した。よく見ると、それらの白い糸は文字の綴りのようであった。そのエクトプラズムの抽出の仕方によって、男は詩人というあだ名で呼ばれるようになったのであった。詩人の向かい合わせた手のひらのあいだにするすると白い糸が凝縮して、一体のホムンクルスが姿をとりはじめた。詩人の抽出するエクトプラズムはかなり質の高いもので、みるみるうちに人間の姿となっていった。すこぶる見目麗しいホムンクルスが、詩人の手のなかに横たわった。

 夜が夜を呼ぶ。夜が夜を集める。日が没すると、電燈の明かりがまたたき灯った。公園の公衆便所の前で、携帯電話の画面を見つめている男がいる。夜が集めた夜の一つであった。男は立ち上がって、河川敷のほうへ向かった。樹の蔭から別の男が出てきて、そのあとを追った。これもまた、夜の一つであった。そして、これもまた、夜の一つなのか、エクトプラズムが公園の上空に渦巻きはじめた。さきほどまでは、雲一つ浮かんでいなかった月の空に、渦巻きながら、一つになろうとして集まった雲のようなエクトプラズムがひとつづきの撚り糸のようにつながって地上に降りてきた。それは、公園のなかに置かれた銅像の唇と唇のあいだに吸い込まれていった。公衆便所の裏には、小川が流れていて、その瀬には、打ち棄てられた板屑や翌日に捨てられるはずのごみが袋づめにされて積み上げてあった。そこには、月の光も重なり合った樹々の葉を通して、わずかに差し込むだけだった。それでも、小川を流れる川の水は、月の光を幾度も裏返し、幾度も表に返しては、きらきらとまたたき輝いていた。小太りの醜いホムンクルスが三体、袋づめにされたごみとごみのあいだに身をすくませていた。それらの目の前で、二頭の大蛇のような、太くて長い陰茎のような化け物たちがまぐわっていたのだった。まるで無理にねじり合わせた子どもの腕のような太さの陰茎であった。一頭の陰茎が射精すると、もう一頭のほうもすぐに射精した。二頭目の陰茎の化け物の精液が、身を寄せ合っていたホムンクルスたちの足もとにまで飛んだ。いちばん前にいたホムンクルスの足にかかったようだった。そのホムンクルスの足がかたまって動けなくなった。すると、突然、空中から、シャキーン、シャキーンという鋏の音がした。ホムンクルスたちが上空を見上げた。わずかな月の光を反射して、巨大な鋏が降りてきた。鋏はシャキーン、シャキーンという音とともに、陰茎の化け物どもとホムンクルスたちのそばにやってきた。三体のホムンクルスが背をかがめた。かがめ遅れた一体のホムンクルスの首が、一頭の陰茎の化け物の亀頭とともに、ジャキーンと切り落とされた。
 銅像が目を覚ます。右の腕、左の腕と順番にゆっくりと上げ、自分の足もとに目をやった。足が持ち上がり、銅像は歩きはじめた。青年は先に河川敷に出て、川を見下ろせる石のベンチに腰掛けていた。二つの橋と橋のあいだに点々とたむろする男たち。追いかけていた男が青年の隣に腰掛けた。青年は自分の腕にまとわりついていた蜘蛛の巣をこすり落としていた。それは、青年の死んだ父親の霊だった。青年の父親はさまざまな姿をとって、死んだあとも、青年の身にまとわりつくのであった。この夜は、千切れ雲のような蜘蛛の巣となって空中を漂いながら、青年がくるのを待っていたのであった。追いかけてきた男が立ち去ると、青年は携帯電話をポケットから出して開いた。きょうも詩人からは連絡がなかった。嬌声が上がった。上流のほうで、叫び声とともに、何か大きなものが川に落ちる音がした。もう一度、ひときわ大きなわめき声に混じって嬌声が上がった。青年は立ち上がって、振り返った。だれもいなかった。ふと、ひとがいる気配がしたのであった。青年は上流に向かって歩きはじめた。大人にはなりきっていない子どものようなきゃしゃな体格の男たちが、茂みと茂みのあいだにある細長い道を走り去っていった。川には、黒眼鏡を手にした中年の男がいた。男は、もう一つの手で水辺の雑草をつかんだ。黒眼鏡の中年男は医師だった。走り去った男たちは、医師が持っている薬が目当てだった。青年が渡したハンカチで濡れた手を拭き取った医師は、坐らせられたベンチの下を覗き込んだ。姿勢を戻した医師は、青年の目の前で、手のひらを開いた。手のひらのくぼみには、ビニール袋に包まれた黒い粒と白い粒がいくつかあった。銅像は耳をすませた。銅像の耳は、時代を超えた叫び声を聞いていた。刀や槍で刺し貫かれて川に突き落とされた男たちの叫び声だった。猛獣に噛み殺され身を引き裂かれた女の叫び声だった。銅像は瞼を上げた。銅像の目は、時代を超えた映像をいくつも見ていた。川べりで生活する古代人たち。川遊びをする子どもたち。川の上を、爆弾を落としながら、飛行船が横切っていった。その映像が、公衆便所の真上にくると、巨大な鋏が姿を消した。地面の上には、白銀色のエクトプラズムの残骸がちらばっていた。銅像は自分がいた場所に戻るために、その重たい足を持ち上げた。地面の砂がざりざりと音を立てる。

 ホテルの支配人に案内されてから十数分ほどのあいだ、彼の精神状態は張り詰め通しだった。ひとり、老作家のいた部屋の窓から飛行船を眺めやりながら、彼は、瞬間というものに思いをはせていた。テーブルの上には、老作家が若いときに、愛人の若い男性といっしょに撮られた写真が残されていた。老作家とのやりとりもまた歴史に残る一コマであった。彼は、それを十分に意識していた。彼は、老作家のやつれはてた相貌を目にして、そのことで気を落としながらも、そう思っていることを悟られないように気をつけて、微笑みを絶やさず、老作家の瞳を見つめながら話をしていた。軍服を着た役人たちには渡さずにおいたフォトフレームに手を伸ばすと、彼は写真を取り出し、それを自分の懐のなかにしまった。彼は、その部屋に入る前と、出て行くときとでは、自分がまったく違った精神状態にあることを自ら意識していた。入る前は、たとえ異国の作家ではあっても、自分が尊敬し、敬愛していた偉大な人物に会えるということで、気分が高揚していたのであった。しかし、いまは、その人物が生気を失い、見るも無残な老醜をさらしていたことにショックを受けていたのであった。彼は部屋のドアも閉めずに、ホテルの廊下に歩をすすめた。ドアの外に待機していた配下の役人が二人、あとにつき従った。後年、彼は、自分と老作家とのあいだで交わされた会話を書くことになるだろう。彼は、老作家にこう言ったのだった。「あなたが世界をお忘れになっても、世界は、あなたを忘れてはおりません。日本という異国の地ではあっても、あなたの存命中はもちろんのこと、あなたが召されてからも、最善至高のおもてなしをいたします。あなたは、あなたが亡くなったあとも、あなたの貴重な体験を、あなたのたぐいまれな才能を、図書館で発揮していただくことができます。あなたの死後、あなたの血管のなかを、日本の最高の術師たちによる、きらめき輝く銀色のエクトプラズムの霊液が駆け巡ることでしょう。あなたは、永遠に生きる死者として、後世の人間に、あなたの体験や知識を、あなたの事実や、あなたがつくった物語を、真実と真実でないあらゆるすべての瞬間を語りつづけることができるでしょう。」それまで打ち捨てられていた老作家は、それまで打ち捨てられていた通りに、ただ息をするばかりで、彼の言葉をほとんど理解することもできていないようだった。やがて担架が運び入れられ、その身体が持ち上げられて、担架とともに運び出されるまで、老作家はひとことも口をきくことができなかった。彼は、ホテルの支配人に、老作家の庇護者に早急に連絡をとるように言い、老作家の身のまわりの品物をすべて、あとで日本の領事館に送り届けるように命じた。
 三島由紀夫は、オスカー・ワイルドをのせた担架が飛行船に運び込まれるところを後ろから見ていた。瞬間か。そうだ、瞬間だ。しかし、われらには死後の生がある。すべてが瞬間のきらめき、つかのまのものだ。だとしても、われらには死後の生もある。たしかに、ただ、ほんものの美は瞬間のきらめき、つかのまのものであって、死後において語られる言葉のなかにはない。言葉ではない。言葉にはできない。語ることができないものなのだ。それが、わたしには恐ろしい。しかし、言葉は装置でもある。ただ、こころのなかにだけではあるが、美の瞬間を甦らせることができるのだ。つかのまの歓びである、つかのまの悲しみを甦らせることができる装置なのだ、言葉というものは。個人としては、だな。三島は苦笑した。いや、個人を超える伝統というものもまた、死者たちが図書館で語る言葉によって維持されてきたのだった。
 飛行船がゆっくりと上昇していった。


自由詩 陽の埋葬 Copyright 田中宏輔 2023-09-25 00:01:29
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