秋のサイクリング
番田
僕は時々自転車で隣町に出かける。そうすることで、色々なものごとを振り切るようにして、走っている。季節を木々の色や葉の色に感じ取りながら、自分の昔そこを歩いた幻影をぼんやりと、思い出している、僕はあれから何をしてきたのだろうかと。もう、同じ場所にあったはずだったラーメン屋の建物はない。自転車は走っていた。景色に何を探しているのだろう。通り過ぎた場所に感じてきたもののことだろうか。例えば、柵に絡みついたいくつかのツタの数々を。いくつかの、人々の、後ろ姿や、鳥。鳥はどこに行くのだろうかと思った。僕の知っている忘れかけた誰かの姿を見ることはあるだろうか。そのようなことを思い巡らせていた。そのような、流れる時間の中で、今日も走っていた。
昔ベトナムを旅行した時に見た色々な通りや建物。地面は舗装されてはいたが、日本のように、整備されたものではなく、でこぼこしていた。そのような路面というのは国柄を反映していると思うのだ。いつかのニューヨークの路面は、時折、手荒に作ってある歩道もあったりした。ヨーロッパは、きっちりとした石畳だった。そのように考えると、その見解はあながち間違ってはいないのかもしれない。もう、よく覚えてはいなかったし、写真にも撮られるものでもない。時は何を人に教えるのだろう。サンマはもう穫れないし、イカも記録的な不良だった。来年に期待する人もいなくなった今は、もう、そのことが当たり前になったからのように思える。すでに、外は、夜だった。でも、このようなことを考えていても、結論には至らないのだろう。今はどこにいくのかという不安だけが、不確かであって、確かに思える。ベトナムに昔の僕の行ったことだけが事実であって、パスポートにはスタンプが残されている。夜風が吹いている。自分を忘れたようにして、またこんな日記を書きたかった。