散文練習作 《続・グッド・バイ》
室町

コールド・ウォー (三)

男に対して物怖じしない怪力女キヌ子はなぜか水原ケイ
子の兄をみると黙ってしまった。
すぐにわかったことだがケイ子の兄はキヌ子のタイプの
ようだった。
あんな熊のような、無骨で無神経な大男のどこがいいの
か。
いったい何のために大枚はたいて連れてきたと思ってい
るのか。
田島はさっそく損得計算をして腹を立てていた。
キヌ子を前に出そうと入り口の廊下でごたごたしている

「静かにしろ」とケイ子の兄が怒りを含んだ声でいった。
「妹は薬を飲んで今眠ったばかりだ」
ケイ子の兄は座ったまま睨むように田島に向き合った。
「おまえが田島か」
なんという言い草か。妹さんの生活の面倒をみてやって
いるというのに感謝のことばひとつない。
しかし田島は、いつものごとく気持ちとは裏腹にすっか
り萎縮してしまった。
「妹さんにはお世話になっております」
「まあ、座れよ」
ケイ子の兄は顔を赤くしている。
酒で赤くなっているのでなくどうやら怒りを抑えこんで
いるようだ。
おそるおそる座るとめずらしくキヌ子がおとなしく田島
の後ろに従った。
「これはわたしの秘書です」
紹介したがケイ子の兄は気にもとめないようにふんとう
なずいただけだった。
「気持ちがいいか」
「は?」
「ケイ子のような、か弱い貧乏人にほどこしをして気分がい
いかと聞いている」
「そ、それは」
田島は頭を一発ガツンとやられたと思った。
たしか小金を貯めた成り上がりが下種な優越感を満たし
ているにすぎないのかもしれないが。
それが復員兵のケイ子の兄にはたまらない屈辱なのだろ
う。
よく見るとケイ子の兄は復員服の袖が左肩から垂れてい
る。
傷痍軍人だった。戦争で左腕を失くしたのだろう。田島
はいよいよ狼狽した。
胸部疾患のために兵役免除になった田島は戦後のうのう
と生きていることにうしろめたさを感じていた。
それどころか違法な闇行為で米や酒を手に入れ、怪しげ
な密売などをして生計を立てている。お国のためと信じ
て戦った傷痍軍人が今、
貧しい復員服の身なりで目の前にいるのだ。どんなツラ
をしておればいいのか。
「妹の話じゃ、あんた、雑誌の編集者だとか」
「はあ」
"おまえ"から"あんた"になったので田島は少し安心した
が背中には冷や汗が滲んでいる。
戦争の総括もせず、わけのわからない人情話や戦記もの
などを書き散らしている文士とつるんであてもない生活
をしているおれが編集者などと、とてもいえたものじゃ
ない。
「妹はあんたに感謝しているようだがおれはちっとも嬉
しくない」
「はあ、はい」
「これまでのことは妹に代わってお礼をするが、あんた
もうここには来るなよ」
妹にはおれから話しておくと大男はいった。
もう来るなといわれても。
田島は戸惑った。
女関係を精算するためにやってきたのにどうやらケイ子
の兄のほうから関係を切ってくれるというのだ。渡りに
船だが、
そういわれるとあまりいい気持ちにはなれない。別れる
にも美学というものがある。こんな別れ方を田島はした
くなかった。
「あのう、......」と言い返そうとする田島を押しのけて
キヌ子が前にしゃしゃり出てきた。
「お兄様、さすがですわ。さすが帝国陸軍軍人さんは一
本筋が通ってらっしゃる。尊敬しますわ」
「あんた、何者だ」
ケイ子の兄はあらためてキヌ子を目を丸くして見ている。
もの凄い美人であることにやっと気がついたようだった。
「この優柔不断な男を妹さまとの関係を精算するために
連れてきたんですの」
「あんたが」
「そうですの。あたしお兄さまをみて感激しましたわ」
田島は居ても立っても居られない気持ちになってきた。
狭い六帖間の窓際では水原ケイ子が静かに眠っている。
「どうかしら、一緒に飲みません?」
キヌ子がケイ子の兄を誘っている。
「わたしはそんなに強くないのでな」
ケイ子の兄はまんざらでもない様子だ。
「ちょっと失礼」
田島は部屋を飛び出した。
くそっ。必死で生きてなぜ悪い。必死で生きようとして
いる女を囲ってなぜ悪い。
丙種非国民のおれが傷痍軍人の妹を妾として囲っている
。それがどうした。
田島は昼間からやっている顔見知りの酒屋に駆け込んだ。
闇酒を出す小料理屋で、亭主は田島の無理ならなんでも
きいてくれた。

       断崖絶壁の男(一)

浴びるように飲んでテーブルに伏せっていた田島が目を
覚ますと傍らに水原ケイ子が座っていた。
「君がどうして?」
青白い顔に微笑を浮かべたケイ子は田島に頭を下げた。
「兄がひどいことをいったそうで.......」
もう夜だった。客はもとより田島ひとりだけ。店主は二
階に上がっている。一人で禁制の酒をずいぶん飲んでし
まったようだ。
「ごめんなさい」
「あなたが謝ることはない、ぼくはね」
田島はケイ子の手を握って勢いでいってしまった。「あ
なたを見捨てませんよ。だれが何と言おうとあなたを守
る」
「まあ」
水原ケイ子は手を引っ込めると小さな声でいった。
「田島さん、あたしと縁を切るために来られたのじゃ」
「だれがそんなことを......」
あっと田島は声をあげた。
「キヌ子に聞いたんですね、キヌ子はどうしているんで
す?」
「兄と飲んでます」
「あの野郎......」といってから田島はバツが悪そうに笑
った。
「あの女はわが社に押しかけてきた秘書見習いの女でね
、あんなにたちが悪いとは思わなかった」
不思議なことにこんなときでもウソがすらすらと口をつ
いて出てくる。いや、田島はじぶんでも何がほんとうで
何がウソなのか最近はわからなくなっている。
「いいえ、とても美しい方ですわ」
「あれで綺麗だから怖ろしいんだよ、女ってのはねえ、
きみのように花のようでなければとても付き合いきれた
もんじゃないんだよ」
田島はまたケイ子の細い手を掴んだが、すぐに彼女の兄
の左肩から垂れ下がった復員服の袖を思い出し、手を引
っ込めた。
「きみ、病気のほうは大丈夫なのかい」
「あたしの身体なんか、どうでもいいのよ」
水原ケイ子は他人事のように微笑んだ。
「そんなこと言っても」
「あたしも、お酒頂いていいかしら」
「酒なんかダメだよ」
「一杯だけ」
「そうか。じゃあわたしも飲もう。一杯だけだよ」
おいおやじ! 降りてこいよ、客だよ、客だ。熱燗だ。
二階に大声をかける。
雨が降ってきた。
二人は額を寄せ合うように語り合った。
「こんな雨のなかでもホタルがとぶんだよ」と田島がい
ったのがきっかけだった。
「ウソばっかり」とケイ子はいった。
ウソだった。
「雨の日は隠れているんだ、葉の陰や梢の下に」
「そうでしょう」
「でも、人が現れるとホタルは人霊(ひとだま)のよう
にほわっと立ち上がるんだよ」
「怖いわ」
「情けを求めてね、大雨の中でもゆらゆらとその姿を現
すんだよ」
「ウソばっかり」とまたケイ子がいった。「もう六月。
ホタルは梅雨入り前には消えますわ」
「そんなことはないよ」
おい、おやじ! このあたりのホタルの名所どこだった
っけ。田島が声を荒らげた。
「そりゃあ、先生、玉川上水だよ。ホタルのメッカだよ」
「まだとんでるよな」
「さあ、どうなんでしょうね」
「よし、行くぞ、ケイ子さん、雨がやんだから行きまし
ょう」
「お二人さん、ちょっと足元がふらついているようだけ
ど、上水の土手はぬかるんでいるから気をつけてね」
「あら、やんだと思ったらまた降ってきたわ」
太宰はおやじから傘を借りた。
「相合い傘でいきましょう」
二人は肩を寄せ合った。
「本降りになってきましたわ」
「もう何も見えない」


        



散文(批評随筆小説等)  散文練習作 《続・グッド・バイ》 Copyright 室町 2023-09-01 13:28:26
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