ヨル
リリー

 暗闇の中には沢山の物語がある


  パリの老いた靴作りが
  ハンチングを傾けてかぶっているのは
  むかし街の女に
  とても粋だわ と口笛を吹かれたからという話

  それでその靴作りは
  女房も持たずに年取って寂しい咳をしている

       ★

 オンザロックのグラスの中には沢山の物語がある

  何の木か
  雑木林の中を歩くと
  木もれ陽がさして
  レインコートの男の後姿がいつまでも映る話

  きっと落ち葉の頃に違いない
  女に偽りの恋をしかけて成功して
  偽りの涙で別れた男の後姿の薄いこと

  離れていくに従って男の心の中に
  ほんのちょっぴりあった愚かな女の姿は
  次第次第に影を濃くしていく

       ★

 チリチリと鳴る氷のグラスに話が多すぎる

  ヨル
  人に逢う為に爪を磨いた女の話
  今夜は花モヨウのワンピースに少し酒の匂いがしみて
 
  きれいな爪だ
  と男は言った
  その胸の中で目をあいたまま
  女はくちづけを交わし

  男の首をしっかり抱いて
  柔らかい髪を撫でた
  何度も撫でた
  尖った爪の先に
  それはからまり
  更に細く
 
   裂けた

  月もない暗闇の夜
  男は
  女の爪だけを愛した

      ★
 ヨル
 ひとり
 オンザロックをなめながら
 暗闇の中に
 疲れた

 


自由詩 ヨル Copyright リリー 2023-06-29 19:51:45
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