詩が「わからない」とはどういうことか
室町

わたしの時事雑文にある方がコメントをくれて
丁寧になにかの寓話を語ってくれて要するに「真実なんかないですよ」と仰った。
数日そのコメントを考えていたのですが「真実なんかない」ということはつまり
「わからないものなんかない」というに等しいのではないかということに思いあたった。

わたしがどうして世界の情況に関心をもち
どうして真実や事実を探したがるかというとそこに「隠されているもの」があるからです。
隠れていなくてその全体像がさらされているのなら真実も事実もないのです。
隠れているものや隠されているものがあるからそれを探し出すのが面白いのです。
見つけたものをしてわたしたちは「真実」といい「事実」という。
そういえばもうだれも「隠れんぼ」をしなくなったなあ。
見えないもの隠れたものを探す子どもの無邪気なよろこび。それがわたしです。
これは詩にも言えるのじゃないでしょうか。

でも詩における「難解さ」がわたしのいう「面白い」「わからなさ」かというとそうじゃないのです。
難解な詩はだれにでも書ける。
そして難解な詩を工夫するぶんには結構当人にはたのしい。でも現代詩ってのは
難解でわからないのがいいとは限らない。
どうして難解な詩が戦後の絶望と混乱の時期に生まれそれが難解ななりに面白かったかという
ことを考えなければならない。

戦後のある時期の超難解な詩はわからないけどとても面白かったし凄かったしある意味美しかった。
名前をいちいち出す必要すらない。吉岡実なんかわからないけどめちゃくちゃ面白いし美しい。
幽冥ですらあった。
入沢康夫なんかも難解だけど超絶面白いし難解なのになにを書いているかすぐにわかる。
"わかるけどそれがわかることばで説明できない"というのが本来の難解さと面白さをもった詩なんですね。
  
  昔、泡尻鴎斎という儒者がいた。
  不機嫌に世を過ごし、そそくさと不機嫌に死んだ。
  これが泡尻鴎斎第一号である。
         入沢康夫「泡尻鴎斎という男」

こういうのは難解だけどその良さや思想はわたしにもすぐにわかるわけです。
この例は「現代詩の思想」という講演で吉本隆明が例題として出している詩ですが
わたしもこういうのはすぐに「ああ凄えおもしろい詩だな」とすぐにピンとくる。
ことばは平明そうに見えるから詩の初心者には「なにいってんだこいつ」と映るでしょうけど
詩を書いているというか文学ヤッている人にはすぐにわかる。
吉本隆明はこの三行についてこういうことを話しています。

  非常にうまい。入沢さんの詩はいつでもうまいけれど。言葉に対して苦心している
  ことがわかります。
  皆さん、詩を書いている人が大部分だろうと思いますから、そんなことはすぐわか
  るでしょうが、一見何でもないようだけど、これはとってもうまい。詩の表現には
  そういうところがあります。何でもなく思える表現にまでへずってへずって行く。
  表現を的確に選んでいくためにはその背後に、泡尻鴎斎をどういうふうに設定しよ
  うかなと何百行かやっている。やっているかどうかは知りません。入沢さんは天才
  だと言う人がいるから、すぐに三行ができてしまうかもしれませんが、天才でない
  人を考えると、泡尻鴎斎を設定する時には何百行かいる。こいつを設定した場合、
  こいつをどういうふうにやろうかと考  えたりやってみる。背後で何十行、何百
  行とやってみる。それから言葉の、表現の不的確性、不定性をどんどん排除してい
  く。そうすると、最後にこの三行が残る。  講演「現代詩の思想」
  https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a048.html

そこでですねじゃあ投稿作の中から名前を出して悪いのですが
あらいさまの「四方山話」がそういう意味で難解で面白いかというとぜんぜんそういう
意味での「わからなさ」も「難解さ」もわたしには感じないんです。
この詩がどうしてわたしにとってすかすかでつまらなかったかあまり詮索する気にも
ならなかったけどあえて詮索してみると
つまりこんな言い方は誤解を招くかもしれないですが一種「難解さを狙って」書かれておられる。
それが悪いというのじゃなくそれはその人の勝手だし読む人が評価するのも勝手です。
でもわたしが好きな戦後の難解詩や難解詩詩人たちは「難解さ」なんかは狙っていなくて
戦後の混乱のある必然からそういうかたちで書かざるをえなかったところがある。

「わからなさ」を持っていたのは当時の詩人たちで彼らは「わかってもらおう」として書いた。
入沢康夫が「詩は表現ではない」といったらしいですがあんなのはウソです。
入沢康夫は「詩は表現である」ということを逆のかたちでいったととらえたほうがいい。
今のように「わからなさ」が何かかっこいいという風潮はなかった。
難解な詩を書かざるを得ないある必然のようなものが社会の情況から消えると(ほんとうは
消えていなくてますますやばいところに落ち込んでいるのですが戦後の飽食平和で呆けた
いまどきの日本人にはなかなかそれがわからないのでしょうけど)
そういうふうにいまの社会の情況がみえなくなると
当然
「難解」な詩がもつていたゲーム的な「知的一面」だけがとり残されることになる。
それを現代詩と勘違いした人たちがしきりにそういう詩を書き始める。(「おまえに読めるか」
「へへ読めないだろう」「おれは読めたよ。すごいっしょ。すごいでしょ」)
そしてまたそういう風に詩を解説できる人がもてはやされる。そんな解説は本来の詩のよさとはあまり関係ないと個人的には思っているのですが。

かつての難解現代詩はつまり根っこのところで無学無明のわたしたち庶民のボウっとした人間と
繋がっていた。
だからわからないけど「わかる」わけです。だから何が隠れているのか探してみようという気に
なるわけです。
でも
申し訳ないですけど個人的な好みとしてあらいさまの「四方山話」はわたしにはだれかが
どこかでだれかと対戦ゲームをやっているようなものでわたしにはまったく興味も感心も
もてないものでした。それをもし

  わからないことを面白いと思える余裕、衝動/好奇心、探究心。これを持って
  詩に触れてほしいものです。知っていることだけで答えを出さずに、終わらせ
  ずに、興味を持つこと。そこから湧き出る魅力に気付けるかどうか、

こういうことを仰っているとしたらちょっとそれはどうなのかなご自分の詩がどういうもので
あるかほんとうにわかっておられるのかなと心配をしてしまうのです。
もちろん仰っているように知っていることだけで答えをだすのは問題があるかもしれませんが人さまに好奇心を
つまりわたしのいう「探したい」気持ちを抱かせるにはそれなりに人さまと足元がつながって
いなければ無理な気がします。
いえこの雑文は特定の方の詩をあげつらうことではないのでほんとうにあらいさまには申し訳ない。

ただ表現の自由というか自由な表現というかそういうものは担保されなければならない。
表現の自由とは受け取る側の自由をも認めてはじめて対で成り立つものです。
読む側になんらかの制約や啓蒙を強いるものであってはそもそも現代詩として何かが足りないと
みなさまに感じてほしい次第です。



散文(批評随筆小説等)  詩が「わからない」とはどういうことか Copyright 室町 2023-06-24 07:27:43
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