メシアふたたび。
田中宏輔


つい、さきほどまで
天国と地獄が
綱引きしてましたのよ。
でも
結局のところ
天国側の負けでしたわ。
だって
あの力自慢のサムソンさまが
アダムさまや、アベルさま、
それに、ノアさまや、モーゼさまたちとごいっしょに
辺獄の方まで観光旅行に行ってらっしゃったのですもの。
みなさん、ご自分方がいらしたところが懐かしかったのでしょう。
どなたも、とっても嬉しそうなお顔をなさって出かけられましたもの。
あの方たちがいらっしゃらなかったことが
天国側には完全に不利でしたわ。
それに、もともと筋肉的な力を誇ってらっしゃる方たちは
どちらかといえば
天国よりも地獄の方に
たくさんいらっしゃったようですし……。
まあ、そう考えますと
はじめから天国側に勝ち目はなかったと言えましょう。
地上で活躍なさってる、テレビや雑誌で有名な力持ちのヒーローの方たちは
その不滅の存在性ゆえに
最初から、天国とは無関係なのですもの。
何の足しにもなりません。
そして、これが肝心かなめ。
何といっても、人間の数が圧倒的に違うのですもの。
いえね
べつに、ペテロさまが意地悪をされて
扉の鍵を開けられないってわけじゃないんですよ。
じっさいのところ
天国の門は、いつだって開いているんですから。
ほんとうに
いつだって開いているんですよ。
だって、いつだったかしら。
アベルさまが、ペテロさまからその鍵を預かられて
かつて、カインに埋められた野原で散歩しておられるときに失くされて
もちろん
ペテロさまは、アベルさまとごいっしょに捜しまわられましたわ。
でも、いっこうに見当らず
とうとう出てこなかったらしいんですのよ。
まえに、アベルさまには言っておいたのですけどね。
お着物をかえられたらって。
だって、あの粗末なお着物ったら
イエスさまが地上におられたときに着てらっしゃった
亜麻の巻布ほどにもみすぼらしくって
まともに見られたものではなかったのですもの。
ですから
懐に入れておいた鍵を落とされたってことを耳にしても
ぜんぜん、不思議に思わなかったのです。
ペテロさまは、イエスさまに内緒で
(といっても、イエスさまはじめ
 天国じゅうのものがみな知っていたのですけれども)
合鍵をつくられたのです。
しかし、これがまた鍛冶屋がへたでへたで
(だって、ヘパイストスって、天国にはいないのですもの)
ペテロさまが、その鍵を使われて
天国の門の錠前に差し込んでまわされると
根元の方で、ポキリってことになりましたの。

それ以来
天国の門は開きっぱなしになっているのです。
ああ、でも、心配なさらないで。
天国にまでたどり着くことができるのは善人だけ。
それに、ペテロさまがしっかり見張ってらっしゃいましたわ。
ある日、ウルトラマンとかと呼ばれる異星の方が
ご自分の星と間違われて
こちらにいらっしゃったとき
その大きなお顔を、むりやり扉に挟んで
その扉の上下についた蝶番をはずしてしまわれたのです。

その壊れた蝶番と蝶番のあいだから
ペテロさまは
毎日、毎日、見張ってらっしゃいましたわ。
さすがに
さきほどは、綱引きに参加しに行かれましたけれどもね。
毎日、しっかりと見張ってらっしゃいましたわ。
ほんとうに
これまで一度だって
悪いひとが天国に入ってきたっていう話は聞きませんものね。
まっ
それも当然かしら。
だって、鍵を失くされてからは
ひとりだって、天国にやってこなかったのですもの。
そうそう
そういえば
何度も、何度も
門のところまでやってきては
追い返されていたひとがいましたわ。
まるで、ユダの砂漠の盗賊のような格好をした
アラシ・カンジュローとかという老人が
自分は、クラマテングとかという
正義の味方であると
喉をつまらせ、つまらせ
よく叫んでいましたわ。
ペテロさまがおっしゃったとおり
あの黒い衣装を脱いで、覆面をとれば
天国に入ることができたかもしれませんのに。
意固地な老人でしたわ。
それがまた、可笑しかったのですけれど。
まあ、ずいぶんと脱線したみたい。
羊の話に戻りましょう。

どうして
天国と地獄が綱引きをすることになったのかってこと
話さなくてはいけませんわね。
それは
わたしが退屈していたからなのです。
いえいえ
もっと正確に言わなくては。
それは
わたしが、ここ千年以上ものあいだ
イエス・キリストさまに無視されつづけてきたから
ずっと、ずっと、無視されつづけてきたからなのです。
もちろん
イエスさまは、わたしが天国に召されたとき
それは、それは、たいそうお喜びになって
わたしの手をお取りになって
イエスさまに向かって膝を折って跪いておりましたわたしをお立たせになられて
祝福なさいましたわ。
イエスさまは
あのゴルゴタの丘で磔になられる前に
上質の外套を身にまとわれ
終始、慈愛に満ちた笑みをそのお顔に浮かべられ
わたしの手をひかれて
わたしより先に天国に召されていたヤコブさまや
その弟のヨハネさまがおられるところに連れて行ってくださって
わたしに会わせてくださいました。
天国でも、イエスさまは地上におられたときのように
そのおふたりのことを
よく「雷の子よ」と呼んでいらっしゃいましたわ。
そして、イエスさまがいちばん信頼なさっておられたペテロさまや
その弟のアンデレさまに、またバルトロマイさまや
フィリポさま
それと、あの嫉妬深く、疑い深いトマスさまや
もと徴税人のマタイさまや
イエスさまのほかのお弟子さま方にも
つぎつぎと会わせてくださいましたわ。
どのお顔も懐かしく
ほんとうに、懐かしく思われました。
きっと天国でお会いすることができますものと信じておりましたが
じっさいに、天国で会わせていただいたときには
なんとも言えないものが
わたしの胸に込み上げました。
そして
イエスさまや
もとのお弟子さま方は
わたしを天国じゅう、いたるところに連れて行ってくださいました。
ところが
やがて
そのうちに
天国の住人の数がどんどん増えてゆきますと
イエスさまや
そのお弟子さま方は
わたしだけのことにかまっていられる時間がなくなってまいりましたの。
当然のことですわね。
なにしろ
イエスさまは
神さまなのです。
天国の主人であって
わたしたちの善き牧者なのです。
ひとびとは牧される羊たち
ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわります。
いつまでも
どこまでも
きりがなく
ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわるのです。
もちろん
そのお弟子さま方のお気持ちもわからないわけではありませんが。
ひとびとは牧される羊たち
ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわります。
いつまでも
どこまでも
きりがなく
ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわるのです。
そして
やがて
ついに
イエスさまは
お弟子さま方たちや、信者のみなさんに、こうおっしゃいました。
「わたしはふふたび磔となろう。
 頭には刺すいばら
 苦しめる棘をめぐらせ
 手には釘を貫き通らせ
 足にも釘を貫き通らせて
 いまひとたび、十字架にかかろう。
 それは、あなたたちの罪のあがないのためではなく
 それは、だれの罪のあがないのためでもなく
 ただ、わたしの姿が
 つねに、あなたたちの目の前にあるように。
 つねに、あなたたちの目の前にあるように
 いつまでも
 いつまでも
 ずっと
 ずっと
 磔になっていよう。」

そこで
お弟子さま方は
イエスさまがおっしゃられたとおりに
天国の泉から少し離れた小高い丘を
あのゴルゴタの丘そっくりに造り直されて
イエスさまを磔になさいました。
さあ
それからがたいへんでした。
磔になられたイエスさまを祈る声、祈る声、祈る声。
天国じゅうが
磔になられたイエスさまを祈りはじめたのです。
それらの声は天国じゅうを揺さぶりゆさぶって
あちらこちらに破れ目をこしらえたのです。
その綻びを繕うお弟子さま方は
ここ千年以上も大忙し。
休む暇もなく繕いつくろう毎日でした。
わたしもまた
跪きひざまずいて祈りました。
かつて
あの刑場で
磔になられたイエスさまを見上げながら
お母さまのマリアさまとごいっしょにお祈りをしておりましたときのように
跪きひざまずいて祈りつづけました。
地上にいるときも
マグダラで
わたしにとり憑いた七つの悪霊を追い出していただいてからというもの
ずっと
わたしは、イエスさまのおそばで祈りつづけてきたのです。
天国においても同様でした。
ところが
あるとき
奇妙なことに気がついたのです。
磔になられたイエスさまのお顔が
険しかったお顔が
どこかしら
奇妙に歪んで見えたのでした。
それは
まるで
なにか
喜びを内に隠して
わざと険しい表情をなさっておられるような
そんなお顔に見えたのです。
そして
さらに奇妙なことには
いつの頃からでしたかしら
お弟子さま方が声をかけられても
お返事もなさらないようになられたのです。
また
わたしの声にも
お母さまのお声にも
どなたのお声にも
お返事なさらないようになられたのです。
けれども
お弟子さま方は
そのことを深く追求してお考えになることもなく
ただただ
天の裂け目
天の破れ目を繕うほうに専念なさっておられました。
ああ
祈る声
祈る声
祈る声
天国は
イエスさまを祈る声でいっぱいになりました。
そうして
そして
何年
何十年
何百年の時が
瞬く間に過ぎてゆきました。
イエスさまのお顔には
もう
以前のような輝きはなくなっておりました。
何度、お声をおかけしても
お顔を奇妙に歪められたまま
わたしたちの祈る声には
お返事もなさらず
まるで
目の前のすべての風景が
ご自分とは関係のない
異世界のものであるかのような
虚ろな視線を向けられておられました。
わたしのこころは
わたしの胸は
そんなイエスさまをゆるすことができませんでした。
そして
そんな気持ちになったわたしの目の前に
膝を折り、跪いて祈るわたしの足元に
磔になられたイエスさまのおそばに
天の裂け目が
天の破れ目が口を開いていたのです。
目を落としてみますと
そこには
なにやら
眼光鋭いひとりの男が
カッと目を見開いて
こちらを見上げているではありませんか。
日本の着物を着て
両方の腕を袖まくりして
その腕を組み
じっと
こちらを見上げていたのです。
その顔には見覚えがありました。
天国の図書館にあった
世界文学全集で見た顔でした。
たしか
アクタガワ・リュウノスケという名前の作家でした。
わたしは、そのとき
彼の『クモノイト』とかという作品を思い出したのです。
そのお話は
イエスさまの政敵
ブッダが地獄にクモノイト印の釣り糸を垂らして
亡者どもを釣り上げてゆくというものでありました。
カンダタとかという亡者が一番にのぼってきたことに
シャカは腹を立て
釣り糸を
プツン

切ったのです。
スッドーダナの息子、ブッダは目が悪かったのです。
遠見のカンダタは
シッダルダ好みの野生的な感じがしたのですが
近くで目にしますと
なんだか
ただ薄汚いだけの野蛮そうな男なのでした。
ブッダは
汚れは嫌いなのです。
それで
カンダタの代わりを釣り上げるために
釣り糸をいったん切ったのです。
たしか
このようなお話だったと思います。
仏教においても
顔の醜いものは救われないということでしょうか。
わたしには、たいへん共感するところがございました。
アクタガワの視線の行方を追いますと
そこには
イエスさまが
磔になられたイエスさまのお顔がありました。
わたしは立ち上がり
鉄の鎖があるところに
酒に酔われたサムソンさまを縛りつけるために使われる
あの鉄の鎖が置いてあるところにゆきました。
刑柱の飾りにと、わたしが言うと
お弟子さま方はじめ
大勢の方たちが、それを運んでくださいました。
わたしは
その鎖の一端を磔木はりぎの根元に結びつけ
残るもう一端を
天の裂け目
天の破れ目に投げ落としました。
みな
唖然としたお顔をなさられました。
すると
突然
鎖が引っ張られ
イエスさまの磔になられた刑柱が
ズズッ
ズッ
ズズズズズズズッと
滑り出したのです。
お弟子さま方はじめ天国の住人たちは
みな驚きおどろき
ワッと駆け寄り
その鎖に飛びつきました。
イエスさまは
事情がお分かりになられずに
傾斜した十字架の上で目を瞬いておられました。
わたしは
わたしが鎖を投げ下ろした
天の裂け目
天の破れ目を上から覗いてみました。
無数の亡者たちが鎖を手にして引っ張っておりました。
見るみるうちに
天の鎖が短くなってゆきました。
そして
とうとう
イエスさまが磔から解き放たれる前に
天の鎖が尽きてしまいました。
つまり
イエスさまは
お弟子さまや
天国の住人たちとともに
みなものすごい声を上げて
地獄に落ちてしまわれたのです。
ひとり
ただひとり
天国に残されたわたしは
ナルドの香油がたっぷり入った細口瓶を携え
天の裂け目
天の破れ目に坐して、この文章をしたためております。
こんどは地獄にある
地獄のエルサレムで
地獄のゴルゴタの丘で
イエスさまを祈るため
イエスさまを祈るために
わたしは
この
天の裂け目
天の破れ目に、これから降りてゆきましょう。
地獄でも
きっと
イエスさまは奇跡を起こされて
いえ
地獄だからこそ
こんどもまた
奇跡を起こされて
きっと
ふたたびまた
天に昇られることでしょう。
ですから
このわたしの文章を
お読みになられたお方は
どうして
天国にだれもいないのか
お分かりになられたものと思います。
わたしのしたことは
けっして
あのイヴのように
神にあだする
あの年老いた蛇にそそのかされてしたことではないのです。
わたしの
わたしだけの意志でしたことなのです。
そして
最後に
サムソンさま
ならびに
お弟子さま方はじめ
辺獄にお出かけになられたみなさま方に
お願いがございます。
もしも
天国の門のところで
まだうろうろしている黒装束の老人を見かけられましたら
覆面をしたままでも
もう天国に入られてもよろしいと
お声をかけてあげてください。
よろしくお願いいたします。


では
ごきげんよろしく。
さようなら。


                 マグダラのマリアより



        


自由詩 メシアふたたび。 Copyright 田中宏輔 2023-06-12 00:10:13
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