年代記
本田憲嵩
1
そのあざやかな緑色の布で装丁された書物はページがかなり茶ばんでいてとても古いもののようにみえた。もうすっかりと桃色のペンキの剝げてしまっている粗末なベンチにベージュの豪奢なドレスを着たその老貴婦人は座っていた。その静かなたたずまいにはどこか古風な気品を漂わせていて、かのじょはその古い緑色の書物に黙々と目をとおしている。その書物のあいだには大きめの灰いろの栞がちらりと一か所挟まったままだ。それにしてもいささか場違いである、そしてかのじょはいったい何の書物を読んでいるのだろうか?伏し目がちなかのじょの鳶色の瞳は皺や染みにとり囲まれながらも霧のようにどこかミステリアスで、かとおもえば、ときおりとても強い意志によってまるで茶水晶かなにかのようにくっきりと澄んでいるようにも見える、そしてときおりどこか悲しそうにも。散歩がてらに公園へとおとずれていたぼくはちょっとした好奇心に駆られて、かのじょとその書物の前をちょっと離れたところから幾度かなにくわぬ顔で通りすぎてみた。そうして少しずつ近づきながらちらりと盗っ人の横目でその書物を読んでいる彼女を見やってみる。すると彼女もぼくに気づいたらしくその茶色い年老いた瞳とぼくの若い目とがついにピタリと一致してしまったのだ。すると彼女はその書物を両の手に開いたままはっと驚いた様子で、まるで機械のように硬いまばたきを何度かして、まるでウサギがとび跳ねるかのような勢いで急に立ちあがったかと思うと、なんとこちらへと近づいてくるではないか。その樹木のように皺のおおい貴婦人の顔はどろどろと粘土のように溶けはじめてきて、ねじれたパン生地のようなしろいのっぺらぼうとなり、そのねじれが一瞬でゴムのように元どおりになるやいなや、じつに透明感のある少女の顔だちをかたちづくったのだった。
2
どうやらそれはつぎつぎにみずから捲れてはまた折りかえすことを素早く繰りかえしている、ページとページのまばたきから産まれ出ているようであった。虹いろの花びらがきわめてゆるやかな気流にのってつぎつぎと空へと舞い上がってゆく、本を両手に開いたまま半透明に澄みきった大きな瞳をくりっとさせながら、懐かしそうにこちらを見つめている、その瞳はどこか陽炎のように揺らめいてもはやその周囲には皺もなければ染みもない。やがて彼女はななめうえ上空を見つめはじめた。いまだ繰りかえし折りかえしている書物から花びらのつむじ風をより確実に転送させるために。なぜなら花びらの舞数とそのいきおいはますます春の青空へと増してゆくばかり。そんなかのじょはまるでひとつの、きわめて服飾的な地球のデバイスのようだ。腰まであるロングの黒髪とベージュのスカートの裾は後方へとおだやかに接続されてゆく可視できる二色の流線のケーブルのようだ。
3
ぼくらの周囲にからみつく太いつる草のように連珠されたさくらの花びら、それらはとても穏やかにターコイズブルーの空へと吸い込まれてゆく。まるでぼくらを祝福するかのように。そうしてその貴婦人とぼくはついに運命の再開を果たしたかのように熱い抱擁を交わし合ったのだ。けれどもその青あざやかな空の天蓋には開かれてしまったとても大きな天空の扉。花びらたちが巨大な旋風(つむじ)をつくって吸い込まれてゆくのもどうやら其処。その扉の奥からとてもまばゆい光が視えはじめる――。そう、かのじょもまた、
4
消え去った貴婦人が残したものは例の少し茶ばんだ緑色の書物、けれどもそこにはもはや何も記されてはいない、かのじょの過去の秘密をむやみやたらに覗き見するようなものはもはや何も。そこにつねに開かれていたのはその書物のページの真ん中よりもすこし前の箇所、そこにはぼくによく似た男のモノクロ写真が栞としてはいささか大きすぎる栞として挟み込まれていた、ページから少しだけはみ出して。そしてそれは白紙のページに張り付いたまま決して剥がれはしない。そう、その書物はほかならぬ彼女の人生の年代記。そのモノクロの写真にはおそらくはさきほど羽化したばかりであろう春の紋白蝶。その白い羽をひらひらとさせながら、其処に憩っている、来世。