ダウンフォース
ホロウ・シカエルボク


空中にばら撒かれた葉脈のような物体が痙攣のように蠢いている、そんな幻を見つめているうちにいつの間にか数時間が経過していた…数時間が―右手の人差指の爪で目の脇を掻いたら細かい傷がついた、血すら滲んでいた、だから爪を切る事に決めた、爪切りの音というのはどうしてあんなに間が抜けているのだろうか?いくら考え込んでも答えが出るような話ではなかった、爪を切る音になにかしらの違和感を覚える方がどうかしているのだ、そんなものにどんな意味も求める必要はないというのに…疑い始めるとなにもかもがおかしく感じてしまう、現象そのものの綻びを求めるようになる、自覚がないままに血眼になって、変異の地平をうろついてしまう、時々なんて厄介な性分だろうと思う、けれどそんな逡巡の中で、幾つかは誇るべきものも手に入れてきたというのも事実ではあるのだ、気が付くと手を洗っていた、爪にやすりを掛けた後は必ずそうする、爪の削りかすなどそのままにしておいてもきっとどんな問題も生じることはないだろうけど―牧歌的なテロのニュースが繰り返し流れている、誰も殺したことがない人間が命の尊さを語るのは果たして妥当だろうか?本当のことは必ず巧妙に隠されてしまう、だから有象無象たちが知ったかぶりを繰り返してしまうのは仕方のないことなのだ、手を洗うとインスタントコーヒーを入れた、コーヒーを飲み始めたのは幾つのころだったのか、多分レストランでバイトをし始めたあたりだろうか…ほとんどの些細なことは思い出せない、いまだに続いている出来事だったとしてもだ、椅子に腰を下ろし、ワードに向かう、「伝えたい」と思って書くことは必要だろうか、そんな書き方をしたことがない、「伝わればいいなと思う」簡単に言うならそんな思いで書いているに違いない、コミュニケーションの為のツールではない、そこにはもっと複雑な感覚が確かに存在しているのだ、ブラックの苦みが喉を塗り潰す、極端な感触は―極端な感触はいつだってポエジーとしては適切だという気がする、いつだってそうだろ、文字にとらわれる連中は自分の為に書き続けるだけだ、P・Jハーヴェイが戦慄いている、その亀裂はおそらくこの胸の内にあるものとよく似ている、甘いものばかり食い続けていると身体は鈍くなる、空腹を覚えることは大事だ、ないがしろにしてはならない、感覚を…感度を―狂気がある、いつだって狂気がある、それがあることこそがまともなのだ、踏み外すことが出来ないものどもの、どんよりとした正直さを正解だなんて呼べるものか?怖ろしく澄んだ水にだってなれるし、澱んだ泥水にだってなれる、振り幅の中でどれだけの物事を手中に収められるか、そんな工程を本能的に行えるものだけが狂気を飼い慣らせる、制御出来る狂気など狂気と呼べるのか?制御するのではない―泳がせて見極めるのだ、それ自体には少しも干渉してはならない、真理とは未整理なものだ、理路整然と眼前に並べられるようなものであってたまるものか!狂気を恐れ、避けようとしてはならない、逃げようとすれば必ず飲まれてしまう…もしも対峙してしまったのなら、きっちりと目を見開いてすべてを把握するべきだ、それしか助かる道はない―ひとつの現象として追いかけることが出来るなら、狂気はむしろ気の利いた娯楽になる、所詮思考の範疇で片付けようとするな、人であることに甘えるな、予定調和に殉じるくらいならこの首を掻っ切ったほうがマシだ…伝えるな、乗せろ…綴るに至るすべての理由を、熱意を―本当にそれを読もうとしているものたちは文字を鵜呑みにしたりしない、その裏側になにが隠れているのか、どんなイメージを孕んでいるのか―こいつにこれを書かせたものはいったい何なのか、そんなことを読み取ろうとしているのだ、結局のところ、あらゆる表現形態において、一番必要なのは熱量だということだ、下手では話にならないが、上手いだけでは何も残せない、書き続ければ書き続けるほど、技術や知識の話をしたがる連中が居る、シンポジウムでも開きたいのか?ノーサンキュー、ポエジーってもっと正直なものさ、でもそれは、分り易いということと同じではない…その時内奥に渦巻いているものをすべて差し出して見せるということだ、そのために数千文字の瞬間を生きるのだ、これがすべてだ、いまこの時に語れることのすべてだ…そうして初めて、狂気は大人しく引出の中で目を閉じてくれる、次の一行に手を付ける限り、迫り来る狂気に飲み込まれることは無い、出来る限り詳細に、その混沌について話してあげよう、実際、この俺だって、誰かが残した狂気のスケッチに震えて、最初の一行を書き始めたものさ…。


自由詩 ダウンフォース Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-04-17 21:44:25
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