読むことのスリル──ひだかたけし小論(4)
朧月夜

第三章 交感ということ


 さて、それぞれの章に副題を付けながら、わたしはその本論から離れた論評だけを書いてきたように思います。言い訳を許してもらえるのであれば、それは氏の作品群があまりにも膨大であるためであり、わたしがこの詩人に関する情報をほとんど持っていないためでもあり、「読むことのスリル」を読者に味わってもらいたいためでもあります。ここで、ひとつの問いが生じます。「読書」とは何でしょうか?
 この問いは本質論でもあり、「ひだかたけし」という詩人の詩を読み解いていく上でのひとつのアプローチ、すなわち個別の問いでもあります。わたしはこの小論を書くにあたって、十分な時間を持ち合わせていません。もし時間があるならば、いいえ、氏が一冊の詩集を出版していたならば、その労力はかなり軽減されたことでしょう。ですが。ここに一杯のアップルティーがないように、そのような贅沢は許されてはいません。限られた情報、限られた時間のなかで、氏の詩を読み解いていかなくてはならない。
 そのために、わたしはひだかたけし氏自身が自選した、ひとつの詩を引用したいと思います。「坂道」(*1)という詩の一節です。
 
  二人寄り添い
  昇った坂道
  橙色に染まる
  夕暮れに
  奥まる時間を
  二人して
  ぐんぐんぐんぐん
  遡行した

 この詩にも、氏の詩に共通して見られる、「主観」と「世界観」とのせめぎあいが見られます。氏は、これを「哲学」ではなく、「直観」であると言うのですが……ここで、「哲学」と「非哲学」、または「哲学」と「文学」との境について云々することは無意味でしょう。この論の初めから主張しているように、氏の作品はまぎれもなく「文学」であるからです。では、「文学」とは何ぞや?
 文学の歴史は、詩歌の歴史から始まったと言っても過言ではありません。人は、覚えにくい神への賛歌を暗唱するために、詩歌というものを発明しました。詩歌とは、その本来においては、暗唱されるもの、覚えられるもの、としての性格が濃かったのです。ですが、近代に入り、詩歌は定型や韻を捨て、小説や哲学に近いものとなりました。ここに、「詩」と「非詩」の境目はあいまいになったのです。
 現代において、詩を詩たらしめるためには、そこに「詩想」というものがあるかどうかが鍵になってきます。ですが、この「詩想」というものも厄介なものです。第一章で書いたように、日本の詩人たちは「あはれ」というものについて問うて来ました。この伝統、というよりも呪縛は、現代でも変わらないものがあると言えます。詩は、その伝統によってしか、詩たるか、詩たらざるかを判断し得ないのです。
 この章の副題は、「交感ということ」というもの。「交感」というのは、英語で言えば、「コレスポンデンス(Correspondence)」。表層的な意識を超えた、深層心理と深層心理の交流のことを表しています。この言葉を最初に詩に用いたのは、19世紀の詩人であるボードレールでしょうか。あるウェブサイトによれば、コレンスポンデンスとは「地上と天空の対応」を表しているとされていますが(*2)、そのように語義を拡張していくことは、無意味でしょう。この語は時代が下って、「商業的な通信」を意味するものとしても使われているからです。
 しかし、ここでわたしが伝えたいとしていることは、氏の詩における「魂と魂の共感」についてです。語彙とは時代につれて変化していくものであり、日本語において「にほふ」という言葉が視覚から嗅覚に属する言葉へと変化したように、わたしたちは「今現在」の語彙においてしか、言葉というものを判断できないものです。このことを論理的に証明するためには、クワインやクリプキのような哲学者の登場を待たなければなりませんでした。
 クワインやクリプキは、ソシュールの言語学を受け継いだ、アメリカ哲学の代表的な論客ですが、その論をここで仔細に展開することは止めておきましょう。ただ、その主張によれば、「言葉というのは、固有名詞ですら、その典拠というものを求めることは不可能である。言語は経験的にしか把握され得ないものである」という証明が得られています。わたしが「コレスポンデンス(交感)」という言葉を使いたいのは、単なる慣れに過ぎません。そして、それがひだかたけし氏の詩を評するにあたって、ふさわしいと思えるからです。
 この「坂道」という詩では、まず「二人寄り添い」という言葉によって、二人の登場人物が現れます。その後も、「二人して/ぐんぐんぐんぐん」「湧水大地に二人座す」「二つの生が溶け合って」「二つの魂が共鳴して」「僕らは何処に行くのだろう/僕らは何処から来たのだろう」という表現があることから、この「二人」がこの詩の「主役」であることは間違いないことと思えます。この詩の導入である一節も、この「二人」が抜き差しならぬ関係にあることは見てとれます。
 ですが、ある二人の個人の関係を表すとき、そこに叙景は必要でしょうか? 心理主義の登場を待つまでもなく、ある個々人の関係性を示すときに、叙景というものは必要なものではありません。「二人」と言いながら、作者はすでに「世界」へとのその叙述を変更してしまっているのです。「昇った坂道/橙色に染まる/夕暮れに/奥まる時間を」というのは、明らかに叙景です。なんら、心理に対して変化をもたらすものではあり得ません。
 ここで、この二人の関係性とは、「世界そのもの」への昇華を誘うものではないのか、という考察が生まれてくるのです。この詩の中では、二人の登場人物の愛と思いが、簡潔かつ精緻な言葉で綴られています。詳細を知るには、ぜひこの詩の原文を読んでほしいと思うのですが、この文章が批評であること、そして引用という手法の性質上、ここでは読者の想像力に任せることにします。それよりも、ここに引用した一節は、それだけでも詩たり得るものではないしょうか。わたしは、そのことに読者の注意を喚起したいように思うのです。
 この詩のテーマは、人間同士の別れ、です。引用した文章に続く、「遠い遠い過去のこと」「運命の出逢いと永遠の別れ」という表現が、それを証しています。わたしはこの詩人の人生について深くは知らず、その底に分け入って行こうとも考えていません。ですが、この詩人の姿勢がつねに真摯な態度であることを鑑みるとき、この「別れ」という言葉は信用して良いものでしょう。──ここに、氏の詩が「生活詩」でもあり得る、という相貌が現れてくるのですが、今はその話題について吟味するところではありません。
 この詩の要点は、二人の出会いと交感が世界そのものへと昇華している点にあります。この詩のなかで現在性を感じさせる部分は、冒頭で引用した一節のみです。読者のために、あらためて書き直しますが、「二人寄り添い/昇った坂道/橙色に染まる/夕暮れに/奥まる時間を/二人して/ぐんぐんぐんぐん/遡行した」というのは、この詩における唯一の小説的な叙述であり、その後、詩人はすぐに詩の世界へと帰っていくことになります。どうにもならない定めがあった。しかし、それは過去のことでしょうか? 現在のことでしょうか? この二人の登場人物は、「世界」を通して初めて通じ合う。もし、「世界」がなかったならば、二人の交感もなかったことのように思われるのです。
 人が人を愛するとき、あるいは人が人と触れ合うとき、それはどんな方法によってでしょうか。手を握ることでしょうか。キスすることでしょうか……。これ以上は言いますまいが、二人の人間が真に感情を共有するためには、その身体をも共有し合わなければなりません。この詩のなかに、「手をつなぐ」「キスをした」という言辞があっても、本当はおかしくないのです。世俗的な詩人であれば、むしろそうした表現を積極的に使うことでしょう。ですが、この定められた詩人、わたしが主張したいように「生まれながらの詩人」にとっては、そうした表現では満足されない。このことは、詩人が単に過去の記憶を忘れている、といったこととは異なっているでしょう。世界は、「二人」を認識するとともに、「世界」それ自体を認識する。そう、せざるを得ない。その点にこの詩の悲しみ(または本質)があり、作者の悲しみがあります。
 あるいは、今述べたこととは一転して、この詩は明るい詩であるのかもしれません。かつて、良き思い出があった。それは眩いばかりに美しく、詩的言辞をもってしか表明できない。そのような解釈も可能です。わたしにとって親しい(よく知った)詩人である中原中也などは、過去の面影にすべての詩想を求めるような作家でした。メジャーな詩人ですから、詳しく引用する労は省きます。その作品のすべてが過去の幻影である、と言っても良いでしょう。ですが、この「ひだかたけし」という詩人にあっては、すべてが現在であるのだろうと思えます。
 過去の叙述は、現在の反映としての過去でしかない。それは過ぎ去ったものであり、もうニ度と手には入らない。そんな諦観──ではありませんね、達観した思いが、この詩を読むと伝わってくるのです。それは、誰との別れなのでしょうか。最愛の人との別れでしょうか。……ですが、このような結論には迷います。なぜなら、この詩人には詩人たるべく確固とした信念があるからです。また中原中也と比較しますが、彼は「何よりも生活を」ということを求めた詩人でした。そこに描かれる「過去の女性」の面影は、中原中也が愛した人の面影に他なりません。そこに、彼の純情もあり、抒情もあります。
 こんなふうに書いても、氏の詩の全体像は見えてこないでしょう。ですので、この「坂道」という詩の最後の部分から、もう一度引用してみたいと思います。
 
  僕らは何処に行くのだろう
  僕らは何処から来たのだろう

  運命の出逢いと永遠の別れ
  橙色に染まる坂道が
  今も仄かな熱を帯びる

「どこから来て、どこへ行くのか」という言葉は、19世紀から20世紀初頭にかけて活躍した画家である、ポール・ゴーギャンの言葉だそうです。Wikipediaによれば、その正確な文章は、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というものであり、これは、ゴーギャンがその絵に付した題名であるとのことです。わたし自身は、この言葉がもっと古いものだと考えていたのですが……あるいはゴーギャンの作にしろ、なんらかの典拠はあるのかもしれないですね。
 実は、ここに現れている「運命」という言葉、氏の作品群のなかでは何度か現れているのですが、タイトルに冠されている作品もあります。「運命〇花の人」(*3)という作品です。その詩は、このように始まります。

  花開いていく花開いていく
  春の陽射しに我は溶けて
  赤、白、黄と紫に、
  己が霊性に燃え盛る花。

  愛され愛し裏切り裏切られ、
  魂叫ぶ、花咲き乱れるこの界に
  〈ああ俺は、遂にお前自身を体験し切れなかった!〉
  既にいつも手遅れになりながら
  運ばれ運ぶ 愛、意志、刻印。

 この詩は、2016年4月の作であり、わたしの知る限り、氏の詩のなかでは初期の作品になります。そんな詩のなかで、「ああ俺は、遂にお前自身を体験し切れなかった!」と、詩人は叫ぶ。このような叫びは、実は「坂道」という作品のなかにも隠されているものです。いいえ、「坂道」という作品が2022年9月の作であることを思うとき、その詩は凝縮された詩想、熟成された詩想を表していると言うこともできます。しかし、この小論の初めにわたしが提示したように、「時間」というものは何でしょうか? ある詩人の作が主であるとき、それ以外の作品は従という関係性を持ちます。完成された作品にとって、その他のすべての作品は従です。
 わたし自身は、作者が「良い」と判断すれば、それを「良い」とする態度を貫いています。自選以上に作者の本質を言い当てるものがあるでしょうか? そのためには、いかに完成度の作品であっても、作者の推す作品以上に主とはなりえないのです。この「運命〇花の人」も卓越した作品ですが、作者が「坂道」という作品を推す以上、わたしはその考え方を信頼したいと思うものです。すなわち、作者はこの作品に対してこだわり、または自負を持っていると。
「運命〇花の人」というのは、美しい詩です。そこでは、詩の対象は「咲き誇る、誇り咲くのは花の人」として描かれています。そして、「花開かせよう花開かせよう(中略)己が霊性に燃え盛る花。)と。ここでは、詩の対象が作者の所有物となっています。その点が、「坂道」という詩とは異なる点です。「坂道」という詩では、「僕らは何処に行くのだろう/僕らは何処から来たのだろう」と書かれているように、作者は自問自答へと帰っている。対象をただ讃えはしない。わたし自身は、そこに作者の衰弱ではなく、深化を見たいと思うのです。作者は単なる「詩の書き手」ではなく、「詩人」へと昇華したと。
 詩人とは、すべての人と同じように、老い、衰弱するものです。かつて、栄華を誇った詩人である萩原朔太郎が、「氷島」「純情小曲集」において老いを曝したように、いつかは詩情が枯れ果てるときがくる──そのことを、わたしは疑ってはいません。ですが、まだこの詩人──ひだかたけし──には、成長の余地が残されているように思えます。その胆力を思うとき、わたしはある種の敗北感を覚えます。わたしはこのように、詩を書き続けたりはしないだろう……と。ですが、わたし自身の思いは置いておきましょう。読者も、作者の愚痴に付き合う余裕も、興味もないだろうと思えます。
「坂道」という詩は、作中の登場人物である「二人」を通して、「全世界」へと誘う詩です。このとき、「交感」は一手段にしか過ぎないと言えるでしょうか? どうでしょう。象徴主義の時代、「交感」とは、詩的表現のすべてを言い表すようなものでした。そこでは、抒情詩の伝統、あるいは吟遊詩の伝統、というものが尾を引いていたでしょう。あるいは、ロマンティシズムの影響もあったかもしれません。ここで、西洋における詩の歴史を事細かに解説することはしませんが、「交感」というものもある種の伝統、そして人間の本質から生まれ出てきたものであるのです。さて、ひだか氏の詩にはそれがあるのでしょうか?
 わたしは、「是」とも言い、「否」とも言います。個人主義にとらわれたとき、その詩は詩であることを止めます。ですが、個人主義に基づかない詩は、到底読者の共感を得ることは難しいのです。なぜなら、読者とは作品そのものではなく、作者を到達点として歩み始めるものだからです。そこに、作者の「教え」や「考え」がなければ、読者は到底感化されることはない。作品とはひとつの哲学であり、人を導く道しるべに他ならないのです。この詩において、恋心を喚起される、あるいはかつての恋を思い出す、といった人は稀でしょう。むしろ、個人的な経験から世界的な経験へと、無理やりに飛翔させられる、そんな読書体験が待ち構えています。そこに、この詩人の独自性があります。
「世俗性」そして「交感(コミュニケーション)」すら、この詩人の詩を読み解く鍵ではないとき、果たしてわたしたち読者はどうやってこの詩人に近づいて行ったら良いのでしょうか?


*1) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=372716
*2) https://bohemegalante.com/2019/02/25/baudelaire-correspondances/
*3) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=317425


散文(批評随筆小説等) 読むことのスリル──ひだかたけし小論(4) Copyright 朧月夜 2023-03-17 05:55:13
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