言葉の強度や輪郭のことについて
ねことら
外枠がある程度の強度で確定したから、あとは色とりどりのボールを詰めた。ここそこに刻む、文字のことだ。二進数的な歩幅で累乗に積み重なったそれは、借景となって僕らの街を覆っている。
僕らは言葉の外分と内分の、その稜線で生きている。対象と被対象の距離は、意識や振る舞いによってゆるく伸び縮みし、そのたび会話やメッセージのやり取りは、山なりの孤を描いたり、鋭角に段落やキーワードにスポットを当てたりする。透明な格子状の世界。あるいはゆるく喉輪を締め付けるロープによる連帯の世界。
言葉は一瞬前を描写する。その時々の輪郭や影は、描写する者の視線によって微妙に揺れ、曲がり、対象と被対象の距離を欺こうとする。言葉自体を描写することはできない。あくまで対象がそこにあるだけだ。どのような翻訳や置換が、言葉という結果の中間地点で作用したか、それは永遠に問われることはない。
/
拾ったり焚べたり笑ったり生きたり、きらきらの息を零そうとする、瞬間瞬間が好きだ、波状と波濤、ゆるむほどの音叉と段差を知らない、なにもかもわからないから、僕は、退屈な広場がこんなにも明け渡されて、届いたはずだった可能性の小さな傷を詩と呼んだ、詩は、僕は、はじめから寂しかった
/
たとえ鮮やかなしるしがここに残る数を希望と呼んだとしても、僕は一度たりともそれを信じることはしない