ボクノツマハ
坂本瞳子
あら、お宅のご主人?
偶然通りかかった喫茶店で
珈琲を嗜んでいたところ
背中向こうの席から聞こえてきた
聞き覚えのある声がそう言った
やはり隣の山口さんだ
甲高い少し嫌味なそれでいて
悪気がないのが癪に触る
そんな声をしている
喉の奥にはきっと棘が
生えているんだろう
そんな風にさえ思われる
声が大きいですと控えめに
か弱い声でか細く囁くように
応えているのがボクの妻で
背中のソファの向こうから
聞こえてくるそれは異様なまでに
耳障りが良く意外だった
もう少しの間でいい
ここでこんな風に聞いていようと思ったのは
見つかって驚いたふりでもしたら
どんな顔を見せてくれるのかと
少しは想像したりしたけれど
そんなことよりも聞き心地の
良い声をしばらく聴いていたかったからで
まさか妻の口からあんなことを
聞かされるだなんて夢にも思わず
もう数時間もここから動けないでいる