残像を踏み締めて
猫道
朝 急いで自転車を走らせ駅前の駐輪場へ
このまま行けば遅刻は免れそうだ
すぐに駅ビルの通路に飛び込もう
と思ったその時
目の前を見知った顔が通り過ぎる
右足が急停止する
ドキッとする
そっちに進むわけにはいかない
少し回り道をして
しかし大急ぎでホームに向かう
別れてからとった連絡といえば
一緒に住んでいた部屋に設置したエアコンに
撤去費用がかかることへの愚痴とか事務連絡で
やがてはそれも途絶えた
彼女は時折スマホの予測変換に出てくる幽霊になった
でも同じ街に住んでいるからこうしてばったり会ってしまうこともあるかもしれない
なぜ遠い街に引っ越さなかったのかというと
未練がなかったからだ
未練があれば思い切り遠くに行っただろう
俺と彼女は最終的に新居の場所をお互いに教えていない
「もし引っ越し先が遠ければ粗大ゴミは捨てておくよ」
という言葉が残る
次どこに住むの?と聞きづらい空気があった
新居を探す時は彼女に言いづらく水面下で探した
1月上旬 別居が決まり
3月20日 引っ越し
その間2人とも相手に一切告げず粛々と引っ越し準備を続けた
「別れることになった」と周りに告げると
「何があったの?」ときっかけを聞かれる
「まぁコロナ離婚みたいなもんかな
テレワークするようになると
お互い家にいるようになって
1人の時間が持てなくなるから」
などと曖昧に返事をしてきた
本当の理由は違う
彼女が俺に言った言葉で忘れられないものがある
「かわいい女の子の役をとられた」
けっこうなパンチラインだと思う
俺はバチバチにアタックする時は男性的で情熱の塊で
一緒にいるにつれてどんどんデレデレと甘えて
やがてはかわいい女の子に成り下がるのだそうだ
自覚は ある
彼女は明確に相手に理想を伝える
だから俺は演出を受けている俳優の気分
近所に食事に出るときは手ぶらで外を歩く
彼女は気にいらないなしくサコッシュをプレゼントしてくれた
この場合「くれた」と言っていいものだろうか
彼女は短いスポーティーな髪型は好まないため
美容師には切り過ぎないようにオーダーしなくてはならない
俺はお笑いとプロレスとアイドルが苦手
彼女は演劇とポエトリーを見下す
違う人間だからそれは本来おもしろい
でも行き詰まったのはなぜか
別れることにしたいと言われた時 ホッとしたのはなぜか
別れる前から自然と新しい物件を眺めて
引っ越しを想像していたのはなぜか
イヤイヤ舞台に立つ俳優のようになっていた俺と
思い通りにならずにイラつく演出家のようになっていた彼女
俳優も演出家も経験あるからわかる
それはクソ芝居
しかしクソ芝居の現場はどんな芝居より面白いことも俺は知っている
声優の専門学校でクラス担任をしていた時
オーディション指導をするために
試しに複数のオーディションを受けてみた
名前も忘れたパワハラ気味のあの劇団では
事務所のガレージで座長のベンツを役者が洗う
今の俺はそいつらを笑えない
誰もが世界を征服したがる
思い通りにしたがる
無意識に自分の台本を書く
相手の配役を考える 勝手に
しかし それでもお互いのストーリーが一致してしまう一瞬がある
そういったミラクルを求めて何度も時間と金と精神力を費やす
ジャンキー
夢から覚めた後の俺は
いつの間にか人に丁寧に接する遠慮がちな人間になっていた
彼女は演出にそぐわない人間をどんどん切っていき
いつの間にか昔のクルーの仲間ほぼ全員と付き合いをやめた
彼女は彼女自身のことも演出にそぐわないので変えていった
人は変わる
変わらない
どっちもさみしい
一番さみしいのは
変わる前の残像がそこかしこに残っていること
YouTubeに
共通の友達に
スマホの予測変換に
一緒に暮らした家の最後の公共料金を支払いにいったコンビニ
レジの女の子は偶然にも彼女と同じ苗字
馴染みの店で紹介されたオシャレなイラストレーター
偶然にも彼女と同じ名前
その度に思い出す
もう存在しない人間のこと
俺らは同じ街で明日からも歳を重ねる
残像を踏み締めて