海
暗合
昨日みた夢では俺は海になっていた。あなたのベッドの中の海だ。あなたは俺が海となってベッドの中で待ち構えているとも知らずに、ベッドの中へ入って俺の体の中でビショビショになった。あなたは何かを叫びたがっていたが、あなたの口の中には水が入って結局あなたは何も言えなかった。俺の体の中であなたは暴れたが、やがて動かなくなった。あなたは固くなり、その後ゆっくりと俺の中に溶けていった。あなたは消えた。俺はあなたに侵食されて、俺も消えた。後は覚えていない。
朝、起きると、激しい雨が降っていて傘は弟たちが持っていってしまった様で、俺は雨に濡れながら学校へ行くしかなかった。外へ出ると結構寒くて、でも家に戻って上着を取りに行くのは面倒だったからそのまま学校へ行くことにした。風は強かった。雨が斜めに俺の顔を叩いた。小学生の頃、母親は俺を殴った。蹴った。あるいは顔をビンタした。この雨は母親のビンタに似ていると思った。
雨が降ると、海は荒れるのだろうか。荒れた海に入ると、どんな風に溺れるのだろうか。
身寄りのないシワだらけのじいさんが操るマリオネットのように、肉がサメに食われるまで踊り続けるのだろう。月の光だけが侵入を許される深海でいつもサメが俺たちを待っているのだ。サメの歯は、月の光を反射してキラキラと光っている。
母親に暴力をされている時に、一番許せなかったのは母親にやり返すことの出来ない自分だった。俺は中学生になって、母親より力がついてもやり返すことが出来なかった。母親はいつも俺を殴っているわけではなかった。たまには俺のことを抱きしめることもあった。俺に笑顔や優しい言葉をくれることもあった。そういう気持が殴られた時にいつも頭に浮かぶのだ。殴っている母親はきっと同じ顔と声を持つ違う人間なのだと思った。悔しいことに俺はいくら母親に殴られても母親のことを嫌いになることが出来なかった。殴られても母親のことを愛してしまっていたから。
母親のことを殴れるようになったのは高校生になってからだ。もう殴ろうとしても母親の笑顔は浮かばなかった。もう臨界点を超えたのだ。もう俺は母親のことを愛していない。別に嫌いではない。母親は母親なりに正しいと思う方法で俺に接したのだ。でも母親は俺の泣き声を聞いてくれなかった。やり返してから、もう母親は俺のことを殴らなくなった。
雨がますます激しくなる。きっと海も、もっと荒れるのだろう。荒れた海の中では蛸が岩に叩きつけられて青い血を流し、海をますます青くさせる。夜になれば、海は闇さえ溶かすのだ。小さいときにみた夜の海を今日まで覚えている。黒くてサーサーとため息のような波の音がした。俺はその黒の中に溶けてしまいたかった。あなたの瞳も同じ様な黒だった。
学校へ行くとあなたはいなかった。いつもは遅刻しないあなたの席が空っぽだった。
先生はいつもと雰囲気が違った。嫌な予感がした。今日の天気みたいな予感だった。
先生が言うに、あなたはもう二度と学校へ来ないのだそうだ。あなたは死んだ。海に溺れて。
俺の夢でなく、本当の海だ。夏休みの間にあなたは海へ出かけて、それから海に流された。
俺は海ではないし、海だったこともない。あなたは海に溶けて消えたが俺は俺のままだ。俺はあなたになりたかったが、あなたになれることは永遠にない。
あなたが最期に言ったのか俺は知れない。きっと口の中に水が入って何も言えなかったのだろう。ただ残るのはサーサーという波の音だけだ。