僕は積極的には、生きる意味を信じていない。自分をあまり信じていないのかもしれない。大体において僕は、社会的な自分や、生活的な自分や、人間としての自分、大人としての自分、男としての自分、なんてものの確立を忌避し続けてきた。僕にはスキルも全然無いし、教養も、すばらしい人格も、個人としての意見も、何ひとつ所有していない。太宰治が、自分には何ひとつ無いけれど、唯一、苦悩してきたことにだけは自信がある、ということを書いていて、馬鹿だなあと思った。太宰治は嫌いではなくて、全集さえ揃えているけれど。
自己を確立したとき、確立された自己以外の、無限の自己が除外されてしまう気がしてならない。僕は誰でもあり得るのに、と。出来るだけ、拵えた自己に拘束されることを避けてきた。僕が持っているのは、僕の世界観だけだ。
心、あるいは世界には、深いところと、浅いところがある。深いところには対立は無く全ては統一されていて、浅いところでは、全ては対立の中で、無限にばらばらに存在している。そして、深いところと浅いところ、どちらかひとつが本当の世界ということは無い。僕はあまり深いところにも、浅いところにも、ひとしく居続けることが出来ない。僕は、自分はペンギンなのだと思う。地上ではよたよた歩くことしか出来ない。でも、地上では他のペンギンと会話が出来て楽しい。そしてまた、僕はひとりきりで海を泳ぐのが大好きだ。深く潜り、浅瀬を泳ぎ、そしてまた陸に上がってくる。
(「詩人はペンギンだ」と書いた詩人がいて、僕はそれを本当に素敵な言葉だと思ったので、ずっと座右の銘みたいにしているのだけど、誰がそう書いたのか、すっかり忘れてしまった。……検索したら見付かった。カミングズの言葉で、正しくは「詩人はペンギンだ。その羽は、泳ぐためにある。(“A poet is a penguin—his wings are to swim with.”)」だった。長い間、僕は自分を、羽の折れたペンギンだと感じ続けてきた。)