すずめの戸締りリライト
はだいろ
結婚10年目、いろいろと、限界を感じています。
妻がカマキリに見えます。
ちくしょう、喰われてたまるか!と、
ちょっと抜けてるところが救いで、今日はデタラメ言って、
遊んできた。
でも、もう風俗はやめると誓った。
もちろん、自分のことを信用してないので、
つかず離れず、離れるつもり。
朝から、「すずめの戸締り」を観て、
そのあと、限定の厚切りロースカツを堪能した。
完食することが、胃袋的に、挑戦になりつつある、
でも無事、割とちゃんと、完食できました。
美味しかった・・・
なんだかんだと、言っていますが、
こうして、お金を払って、観に行かせる力を、
魅力として持っていることに、まず敬意を表します。
ありがとうございます。
その上で、僕なら、このお話を、どうするか。
監督さんと、ぜひ、話し合いたい。
入り口でもらったパンフでも、
はっきり、少女の成長物語である、と明確にしているところが、
この作品が、前作とは異なり、ちゃんと楽しめる点だと思う。
だけど、同時に、
では、なぜ、どうして、僕が泣けなかったのかというと、
まさにそこで、
一言で言ってしまうと、
すずめの、成長が、わからないからである。ただ、それだけである。
ではどうしたらよかったのだろう。
なぜ、すずめには、父親がいないのだろう。
父親の喪失が語られないのだろう。
そこに、意味があるかというと、意味がない。
だから、父親がいない必然性が、ないのである。
すずめは、震災で、家族を失い、それから、
声を失ったことにする。
人間とは、筆談か、スマホのメモで話す。
動物や、物には話しかけているので、声が出ないわけではない。
人を記憶することを恐れ、
人に記憶されることを恐れ、だから、会話をしないのだ。
そうすれば、
あの椅子となら会話ができても、不自然ではない。
それで、
最後、おばさんに一言、
「ただいま」と言う話にすれば良いと思う。
そうしたら、僕は泣いたと思う。
とんかつの腹ごなしに、
あとはずっと、レコード屋さんを回った。
結局、何も買わなかった。
欲しいものが、ないわけではないのだけれど、
いろいろ、
もう一つ、乗り越えるべきものが、あるのかもしれない