スズメバチ(SS私小説)
山人

 いろいろあったようで、そうでもなかったような、そんな数年が続いていた。なんとはなしに、脳の中に霧が立ち込めているのではないかと思うくらい、心底何かを思考する気にはなれないのだ。
 川村は山小屋を営んでいた。山小屋と言っても山岳に位置しているわけでもなく、小さいながらも旅館許可を得、営業したての頃は日帰りの手打ち蕎麦店も営み、宴会から学生合宿、登山客など、来るもの拒まずという営業スタイルであった。しかし、営業開始から三十年弱経った現在ではそれだけでは食えず、地元の林業関係の事業所に身を寄せつつ、家業も細々と続けていた。
 朝九時から営業を始める近くの町のスーパーは五分前なのに入ることが許されていた。いわゆるプロの人たちもそこに行き、仕入れをする。小規模の店を切り盛りする飲食店などは便利な存在なのだろう。一人でカートを押しながら、足早に山のようにカートに積み込んでいるのは、まず同業者と言えよう。そんな人種が多いのは朝一である。
 パセリがないのに気づき、店員に問うと、今は置いていないのだという。何かで代替えしなければならない。そう思う。
 先月はほぼ客は無く、久々の仕入れであった。セルフレジは以前一度だけやってみたことはあったが、普段はあまり使ったことがない。しかし、その日は通常レジが混んでいて、セルフレジは一人もいなかった。また、セルフレジ担当の店員が盛んに、こちらもお使いください、と連呼しているのを見て、そこを使うこととした。使い方をじっくり読み、そのとおりにやると意外に簡単だ。バーコードを差し添えると金額が明示される。意外におもしろい、そう思った。また、自分で品を容れ物にそれぞれ配分し、投入していくという行動は、一種遊び心も芽生える。これは、なんか楽しい、川村はそっと笑った。釣銭とかのボタンを押したりしていると後方に圧力を感じ、振り返ると、男がセルフレジを使おうと並んでいた。周りを見渡すとセルフレジ群はそれぞれ客が操作し、すべて使われているようであった。なるべく、年寄と思われたくない。老害と呼ばれないようにしたいという気持ちが川村にはあった。釣銭を財布に押し込んではそそくさとセルフレジを後にした。
 夕食は六品ほど考えていたが、原材料費を抑えつつ、馳走風に脚色する必要があった。ナスを何とかして馳走風にできないものだろうか、と考えた時、田楽風にしてみたらどうだろう?という発想が浮かんだ。生のナスを切って甘辛い味噌を塗り、グリルで焼くという方法が浮かんだが、それではナス全体に火が通ることは不可能だ。一度素揚げにしないといけないだろう。つまり一度素揚げし、その表面に甘辛い味噌を塗り、グリルで焼き付けるというものである。結果、まずまずだったが、塗った味噌の味がしょっぱすぎて、今一つであった。だったら、ただの揚げナスか煮びたしなどにした方が良かったのではないかというのもあるだろうが、一応努力してます感は与えることができたであろう。川村は、まずまずだったのではあるまいか?とそこそこの感触を得ていた。しょせん、自分には料理の基礎も、技術もない。あるのは真心だけという、くすぐったい気持ちしかなかったが、まさにそれなのだろうという気がしていた。なにも武器は無いけれど、素手でも戦う準備は出来ている、そう考えていた。

 九月十二日、川村の第三の職種、登山道整備の最終日だった。守門岳から作業を終え、妙な音に気付き、そこに視線が貼りついていた。地上三メートルのブナの大木の洞からスズメバチが盛んに出入りしていた。朝はここを通り、草を刈りながら通過したはずだが、まったく気づかなかった。頭上であるから、ハチも警戒心がなく、川村自身も全く分からなかったのであろう。
 川村の住む地区には守門岳と浅草岳という二つの中規模の山岳があり、登山道は長短含めると六コ-スあった。そこを三名でそれぞれ担当区域を分け、単独で行うのである。川村は以前は一コースのみ依頼され行なっていたが、徐々に担当者がリタイヤし、四コースまで増えてしまっていた。きついが実入りが多く、この時期が一年で最大の難関期でもあった。さらに今年は、九月の連休に、ある程度の家業が見込まれ、その前に登山道作業を終わらせる必要があった。つまり、今年の登山道整備はハードだった。いつもなら九月いっぱい適当に日にちを振り分けて行うのだが、今年はそうはいかない。プレッシャー感じながらの作業であり、疲労もピークを迎えていた。八月半ばから林業事業所の勤務仕事に加え、この登山道整備を続けていた。一か月近い間、休みなしに刈払い機を使用していたということになる。そんなハードな十二日間が終わり、ゆったりと刈り払い機を担ぎ、登山道を降下していた矢先のハチの営巣発見であった。
 「なかなか、何事もすんなりと行かせてくれないんだな」
 川村はそうつぶやくと、夕焼けに染まった遠い稜線を眺めつつ、一心不乱に洞から出入りするスズメバチを目で追っていた。
 スズメバチは凶悪である、とされている。攻撃性が高く、巣に危害を加える対象には毒針を突き刺し、間違ってショックで死に至るものもいる。だが、果たしてそうなのだろうか?
 スズメバチの女王バチは越冬し、春からはせっせと巣作りをし、仔を産む。ひたすら働きバチを生み続け、働きバチたちは女王バチや幼虫に餌を運び育てる。幼虫を世話し、餌を運び、外敵から巣を守るということを仕事とし、死んでいく。本当の悪とはどこにあるのだろうか。働きバチたちは洗脳されているに過ぎない。限られた女王バチだけがぬくぬくと生き、温床に留まっているのだ。
 「しょせん、人と同じだな」
 川村はそうつぶやき、日を改めてハチ対策に再び来なければならないと思った。
 



散文(批評随筆小説等) スズメバチ(SS私小説) Copyright 山人 2022-09-21 07:14:23
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