振り上げた拳で自らを力いっぱい殴る人のために
ただのみきや

 *

燐寸一本の囁きで
秘密は燃えあがる
煙は歌い
香りは踊り
時間は灰に
わたしはおしゃべりに



 *

コンマ一秒で宇宙の果てにまで移動したかのよう
喪失の悲しみは桁外れの時空
だが奇跡も不思議も体験したことのない者が
日々見えざる神との抱擁に疑問を感じないように
それは完全なる所有の始まりであって
忘却により納められ封印された不文律の約束
喪失はある種の純化であり人は水底に沈んだ星の
鈍い輝きから起き上がる幻影に
かつての自分から抉りとられた半身に
魅せられて
ゆらめく水面を歩いてゆく
光と闇の織りなすどこまでも続く混沌
赤くも青くも燃える空の下
たなびくように美しくも定まらない幽霊の踊りに
こころを強く唇で吸われたかのよう
この墓石ですら血が脈打ち震え
行き場のない情念に言葉が渦巻いている



 *

絶えず矛盾した欲望を抱きしめることで
あなたの振舞いは幻影の層をまとう
解析できない信号を
暗転した肌が持つ嗅覚で感じながら
浮かび上る仕草は仮象
はち切れんばかりの両生類の卵たち
無数の眼差しが一斉に沈黙を太らせた
わたしたちは跪拝する瞑ったまま
舌と唇で探り計測するそのあやまちに
窓からあふれ出した酔っ払いの巡礼たちは
自由警察犬たちの執拗な追及によって
冷たい遺物の迷路の果て
狭い一角へと追い詰められる
すると朝は刑務官のように迎えに来て
透けた手で目隠しをする
そうして胡乱な刑が執行されて
昨日のわたしたちは空白の無辺の汀
諦めのピリオドを探したまま
何もないところで何かに躓いたふりをする
正式に死んで見せる
たった一人で守り続けて来た祭りの朝



 *

木洩れ日を指ではじく音
冷蔵庫で冷した剃刀の溺れる音

あなたの心のボタンが一つはじけた音
離れ離れになる影が雨より先に零した涙の音

音は鏡の前に立ち
うっとりしながら消えてゆく

鏡は自分の真中に欹てながら
すべてを忘れてしまう



 *

瞳の地球は潮解する
溺れる光のせいでわななきを隠せない
湖はあざだらけの夜で花びらを病んでいた
タオルで包んだ拷問だけが時計のように
釣り人の歌に刺繍糸を付ける
圧力はあっても質量のない記号
錆びた鎌で視野を切り裂いた
カシミヤを着た笑い声
カ行の車掌はオートマチック
左手に自分の脳を乗せて自問する
バスガールは金糸雀の大陸へ



 *

おだやなか芽吹きを夢見ている
見せないことで見られている
人はいつも裸なのだ
言葉だけが虚飾である
冬の樹木に学べ
ただ目を瞑り己に欹てて
おだやかな芽吹きを夢見ている
すべて言の葉を散らし終えて
ただ黙する時にだけ詩人は真実に近い
芽吹きを夢見る静けさだけ
記号化されない囁きの巡りだけが



 *

唾液が細く光っていた
針千本飲まされて
紙飛行機は不時着する
きみの真っ赤な衝動が熱を帯びて
孔雀たちの嘘が絡まり始める
アトラス像は崩壊寸前だ
誰もが自由を求めているようで
普段忘れていられるほどの
長さの鎖をむしろ求めている
アメーバの曖昧な歩みも
言葉にした途端
カブト虫なみに硬くなる
灰になって自由を得た
手紙は再び夢へと帰る
針で留められた標本を残して



 *

その歌声は風だろうか
それとも風の囁きに微笑んだまま解けてゆく
つややかな花びらの夢うつつ
その歌声は風だろうか
それとも真新しい白い翅で春風と戯れる
軽やかな蝶の蠱惑な歩調
喜びと悲しみの溶け混じる
冷たいブロンズの頬にも
囁く幼女の吐息のように触れ
光と涙を一対の価値ある宝石として
すっかり長くなった黄昏の影に添えた
遠く近くやわらかな
歌声は風のように



                  《2022年2月27日》








自由詩 振り上げた拳で自らを力いっぱい殴る人のために Copyright ただのみきや 2022-02-27 14:17:10
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