最後の一艘
ホロウ・シカエルボク
真冬の星座の下で改造拳銃をみぞおちに当てて一息でぶっ放した、火薬は多過ぎ、スプリングは確かだった、燃え上がり、あっという間に丸焦げになり、ヘドロだらけのどぶがようやく流れる時のなにかを引き摺るような音が聞こえると思ったらわずかに残された気管が呼吸を続けようとする音だった、意志とは関係なく四肢は意味の無い方向へ動いていこうとし、そのたびにずぶずぶと炭化した肉体が崩れ落ちる音がした、ふと、喉頭ガンで死んだ父親が、その夜に死ぬという日の午後に見舞ったときのことを思い出した、やっぱりそんな呼吸をしていたなと…電波が上手く繋がっていないところで動画を見ているように視界はコマ送りで進んだ、誰かがこちらに向かって叫んでいた、大丈夫か、しっかりしろ―大丈夫なわけないだろう、それははたで見ているあんたらのほうがずっと確信しているはずだ、救急車がどうのこうのと数人が叫んでいてほどなくサイレンが聞こえた、誰も居ないところを選んだと思っていたのにこいつらいったいどこから出てきたんだろうな、そういえば、耳は生き残ってるんだな、人生で一番音が良く聞こえてる気がする、たくさんの足音、怒号…なんでそんなに必死になっているんだい、お前らが普段得意になって吹聴してるスノッブな態度はどこへ行ったんだい、ギッ、ギッ…と、脳味噌の中でいくつかの扉が閉じられた、痛みや苦しみ、あらゆる感覚がなにかぼんやりした、曖昧なものへと変換された、生まれたときに見たやたら眩しい光のことを思い出した、それが本当の記憶かどうかなんて確かめる術もなかった、もうすべては形の無いもののなかへ還ろうとしているのだ、脳裏に浮かぶ何人かは予想していたけれどそんなものまるで浮かんでこなかった、赤子の、クーイングのような囁きがずっと聞こえていた、それは意味を直接こちらに伝えることが出来た、それは確かにこれまでで最高に良く出来た救済措置だったと言えるだろう、人生はもう濃い霧の中に消えていこうとしていた、身体が担ぎ上げられた、いつの間に?サイレンの音なんか聞こえなかった、それとも、とうとう肉体から解放されたのだろうか?移動が始まった、どうやらまだらしかった、数分おきに意識を確かめられた、反応することは出来なかった、身体になにかされているようだったが、もうそれをはっきりと感じることは出来なかった、幾つかの振動のあと、唐突に眠りが訪れた、「ギリギリだ、でも助かる」夢の中でそんな言葉を聞いた、神様は執拗で残酷だ、そう思いながら目を覚ました時には三〇時間が過ぎていた、すべては理解出来ていた、苛立ちも悲しみもなかった、怒りも…無人島で長いこと暮らせばこんな気分になることが出来るかもしれない、ある意味でこのベッドの上はそんなものだったのだ、看護師が目を開けている俺に気付いてにっこりと笑い、すぐに部屋を出て行った、医師を連れてすぐに戻ってきた、気分はどうですかな、と医師は俺に問いかけた、喉を指さして上手く声が出せないというゼスチャーをすると頷いて現在の状態とこれからの治療の方針について説明してくれた、きちんと整理されたいい説明だった、説明が終わるとこちらをじっと見た、頷いて理解した旨を知らせると満足した様子で去って行った、なにか説教臭いことのひとつも言われるかと思っていたが、そんなことはなかった、喋れない相手にそういうことを投げつけるのは面白みがないからかもしれない、それから数日は液体の飯を点滴で食わされた、病室は静かで、適温に設定された空調のせいで快適だった、こんな世界があるんだなと思った、そういえば入院などしたことがなかった、首を動かして窓の外を見た、でかい樹の枝がバイキングの料理の乗った皿を持ってくるウェイターの腕のように緑を満載してこちらに伸びていた、無人島だ、と思った、無人島って?と誰かに問いかけられ、振り向くと最初に目覚めたときに俺を見下ろしていた看護師が立っていた、俺はなんでもない、というように首を振って見せた、看護師ははいはい、という感じで頷いた、「お話出来るようになったの?」練習だ、と答えた、実際、久しぶりに聞いた自分の声は細く、擦れていて弱かった、無人島か、と看護師はなんだかそれに感じることがあったみたいに繰り返した、WWEの女子レスラーに似ていた、それからは一日に数分、彼女は俺と話をするようになった、お互いに少しリラックス出来るようになったころに、彼女はこう言った、「ねえ、退院出来たら二人で無人島に出かけましょうよ」苦笑してこう返した「いまだってそうだ、ずっと無人島に居るんだよ」そう、と彼女はにっこり笑って部屋を出て行った、次の日、彼女は来なかった、休みかなと思っていたら、廊下で誰かが話しているのが聞こえた、看護師が飛び降りた、即死だった、そんな話だった、畜生、と頭を抱えた
彼女は、最後の一艘を奪っていきやがったんだ!