樹氷のシナプス、そして降り積もる囁き
ホロウ・シカエルボク


閉じたまぶたの裏側から古い鉄扉が軋むような音が聞こえる、それは思考回路の悲鳴なんじゃないかと思った、証明する手段などまるでないけれど…数年前に見た夢を急に思い出す瞬間、俺が生きようとしているのはどんな時間なのか?そんなことについて考えることは海岸の砂を色別に仕分けする作業に似ていた、どれだけやっても意味はなかったし、どれだけやっても終わりはなかった、人の宿命としてそれが無限ではないことは分かっていたけれど…人間など所詮有限の中に逃げ込む生きものだ、まるで防空壕に逃げ込んで弾に当たらないことだけを幸せだと数えるぼんやりとした目の連中に向かってなにを話せばいい?いつだって俺は黙り込むしかない、白紙で居ようとする紙になにかを書き込もうとすることなど不可能なのだ、彼らはその、真っ新な紙面だけを守って墓の下に潜るのだもの…ほんの少し冷え過ぎている指先を温めながら、次に脳膜を突き破って来る言葉のことを考えた、それは砂浜での作業と同じだろうか?答えなど出るわけもなかった、だってそこには答えがひとつしかないわけではないのだから…冷たさはいつでもなにか、意識や記憶の果てを思わせる、氷漬けの生きものが見る夢、一時停止をかけられた生命は永遠だろうか、それが生であれ死であれ…俺が言葉を身体から引き摺り出すのは、どこかでそんな夢を見たいと思っているからなのだろうか、俺はデジタル時計にくっついてる温度計に目をやる、氷漬けには程遠い、そりゃそうだ、当り前だ、少なくとも俺は発掘されたくなどない、死んだままの死、死のままで継続される死、まるで打ち捨てられた廃墟だ、死に続けるうちに、別の生きものになってしまう…剥げ落ちたコンクリの隙間に、引き摺り出され、床に垂れ下がった配線に、下手な蜘蛛の巣のようにひび割れたガラス窓に、俺の寝床が用意されているのかもしれない、俺のノートブックが打ち捨てられているのかもしれない…汗だくになり、虫に食われ、凍え、震えながら、感触とはまるで違う人生を生きるのは滑稽だろうか、でも俺にはだからこそそうする意味があるように思えるんだ、少なくともそこには、ほかのどんな価値も存在してはいないだろう、すべての出来事は塗り潰されるために更新され続ける、それが、たとえ、もう誰も思い出すことがないような場所であってもさ…それは動き続けているんだ―どこまでを言葉にすればいいんだろう?俺は死角にあるものの声を聞き過ぎる、どうしたってそれは聞こえてくるものなんだ、そして、もっと確かにとらえようと耳を澄ましてしまう…そうしているうちに内訳が変わってくる、それを言葉にするために、それを言葉にするたびに…誰かのための詩など書けない、俺は俺の人生しか生きていないから、その途中にあるもののことしか書くことは出来ない、だけど、本来そういうものだから、いつだって誰かがなにかを書こうとするんじゃないのかな、たったひとりで見つめてきたもの、たったひとりで飲み込んできたものを、つい口にしてしまうひとりごとみたいに垂れ流してしまうんじゃないのかな、もしも理由みたいなものがあるのだとしたら俺にはそうとしか考えられない、本当はすべての生きものはただ生まれてきただけで、そこに理由なんて全くないかもしれない、だけど別に、スタートラインに引いてあった白線の白さを、後生大事に抱えて歩く必要なんてまるでないじゃないか…静寂がたくさん散らばっている、昔よりもそれは多くなった気がする、情熱は日常に溶け込み、必要以上に燃えることはなくなった、それはいいことだよ、冷静に見つめることが出来るからね…熱さなんていっときのことさ、そこに固執して先へ進めないなんて、全く馬鹿げているというほかないよね―燃え盛る炎のようだったうたは、縦長の地底湖の水面に落ちる水滴の音のようなうたになった、でもそれは温度が変わっただけなんだ、それはおそらくは俺を凍えさせるどころか奮い立たせてくれる、炎よりも信じられる熱がそこにはあるんだ、昔眼球に張り付いていた出来事の数々は、視神経の始まる場所でぽつぽつと呟きを繰り返している、時々真夜中に、寝床でまんじりともしないで横になっているとそいつの声が聞こえることがある、それにはどんな印象もない、閉まりきらない蛇口から少しずつ落ちる水滴と同じだ、でもそれは、そう…確かに生きているという事実を俺に感じさせる、どんな熱い言葉よりも速く、どんな厳しい言葉よりも確かに…ひとではなくなるということなのかもしれない、ひとではないなにかになって、慣れ親しんだ言葉をまるで初めて目にするもののように仕立て上げたい、きっと俺はこれからもそんなもの思いに耽ってしまうことだろう、そうしていつの間にか時は流れてゆくだろう、いつかと同じものなのかそれともまるで違うものなのか、そんな空を見上げながら世界なんて嘘っぱちなんだと呟くだろう、なにかを小さな声で囁き続けている雪が降り続けて、やがて俺はそいつを身にまとって樹氷のように枯野に立ち尽くすだろう…。



自由詩 樹氷のシナプス、そして降り積もる囁き Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-12-25 22:32:10
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