希望だったけれど叶わなくてもよかった
ホロウ・シカエルボク


それが本当に眠りだったのかと問われれば俺は分からないと答えただろう、現実なのか、それとも夢の中に居たのか、釈然としない何時間かが過ぎて、夢遊病者のように俺は服を着替えて外へと彷徨い出た、それは本当に無心のままの行動であったが、脳髄のどこかで聞こえている信号が自分をどこかに連れ出しているのだという奇妙な確信があった、もっともそれは、このあと数百時間を費やしても上手く語ることの出来ない事柄であっただろう、俺はずっと朦朧としていて、はたから見れば薬物中毒者のように見えたかもしれない、俺はただある地点からある地点へと、内実の分らぬ理由に促されて糸の切れた凧のように流されているだけだった、俺はまだ寝床の中に居るみたいに夢うつつで、これはまるで俺の人生のもっとも端的な縮図だと、そんなことをぼんやりと考えていた、朧げなりにもそんなことが出来ていたということは、少なくともまだ自我だけは失くさないでいたということだ、そして、馬鹿げた感想に聞こえるかもしれないが、それは俺にはなかなかに喜ばしい状態であると言えた、どれだけの人間に理解してもらえるか定かではないけれど、それは実際、なかなかに難しいことなのだ、何かを落とさずに持っているとか、そういうこととは次元の違うはなしなのだから―空は晴れていたが、ちぎれる寸前まで引き延ばしたガーゼのような雲が一面に垂れこめていて、そのせいで太陽をあまり感じることは出来なかった、そしてそれは、夢遊病的な感覚に致命的な安心感を付加した、だから俺は軽く絶望を覚えたけれど、そんなことは初めてじゃなかったから黙って脚を動かし続けていた、住宅地と住宅地の隙間、滑り台とブランコだけの、平均的住宅がひとつ建てられそうなくらいの敷地にこしらえられたつまらない公園と、使用者が居なくなって数十年は経つだろう入口のシャッターがひん曲がった倉庫、それからおそらくはつい最近まで古い住宅があったのだろう、穀物のような色のロープで仕切られた一角で野良犬が死んでいるのを見た、頭が潰れて、目玉が片方飛び出していた、何年も何年も街を彷徨って残飯を食い漁った挙句、こんな死に方をしなければならないのか、そう訴えてでもいるように舌がだらんと伸びていた、それは極めて個人的に俺に向けられた示唆のようにも見えた、でもそれは俺の感じ方ひとつだ、そして俺はとてもそんなことを丁寧に考えられるような状態ではなかった、だからそれはなんだかんだで結局、ただの犬の死体であるというところに落ち着いた、すれ違った太った若い女が、まるできちがいを見るような目で俺のことを見た、人間はどこまで脂肪をため込むことが出来るのか、そんな実験に使用された挙句用済みになって放り出された、その女の異様な太り具合は俺にそんな妄想を思い起こさせた、願わくばあの女が、あの厳しい目を少しでも自分自身の身体に向けることが出来たらいいね、そんなことを考えていると少しだけ目が覚めてきた、気温が下がり始めたせいもあっただろう、そういえば週明けから寒くなると二日前のニュースで見たような気がする、そして俺はそんな気温の中を歩くには少しだけ薄着だった、ぶるぶるっと犬のように震え、歩く速度を上げた、まだ時間が早い、歩いているうちに少しは暖かくなるかもしれない、それは希望だったけれど特に叶わなくてもよかった、そんな裏切りには慣れていた、たぶん、この世界の中に存在する生きものの中では、一、二を争うくらいのレベルで―目的や、指針、それから実績、目に見えるもの、データとして差し出せるもの、今日も通りではそんなものばかりがありがたがられていた、俺はそんな懸命さを馬鹿だと思った、世界を、清潔なだけのつまらないものに変えていくのはきっとそんな連中なのだ、後ろから誰かが俺を追い抜こうとして肩をぶつけた、小柄な、猫背のピース臭い爺だった、そいつは俺を睨んでちっ、と舌打ちをした、ワン、と俺は陽気な犬の鳴声を返した、どうしてそんなことをしたのか分からなかったが、爺は妙に青ざめて脚を速めて俺から遠ざかろうとした、俺は初めわけが分からなかったが、爺の背中を見ているうちについさっき妙な死に方をした犬が道に転がっていたことを思い出した、俺は愉快な気分になって爺の後を追った、追いつかないように、見失わないように…爺がある一軒家の玄関に潜り込んでから、十数えてドアベルを押した、面倒臭そうにドアを開けた爺は俺の顔を見て目を丸くした、俺は爺を家に押し込むように玄関へと侵入し、ドアを閉めた、「ポチを殺したの、お前だろ」あの犬の名がポチかどうかなんて俺は知らなかった、けれどそれは爺も一緒だった、爺はさっきよりもひどく蒼褪め、それから玄関に置いてある靴箱に一瞬目をやった、俺はそれを開けた、血の付いたバールが隅に立てかけてあった、俺はそれを手に取った、爺はワナワナと震えていた、さあ、どうしようかな、と俺はわざと低い声で言った、爺は腰を抜かし小便を漏らした、俺が武器を振り上げると縮こまって痙攣し、それから動かなくなった、そして脱糞した、死んだのか、気絶か…確かめてみる気もなかった、俺はバールを爺のそばに置き、電話機のそばのメモとペンを拝借して「犬殺し」と書き、それを爺の身体の上に置いた、そしてその家を後にした、十分足らずの出来事だったのに、身体中にニコチンのにおいがこびりついた気がした、それでとりあえず次にすることだけは決まった、家に帰って、存分にシャワーを浴びることだった。



自由詩 希望だったけれど叶わなくてもよかった Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-12-12 21:53:29
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