東京オリンピックと影
番田 

ぼんやりと、何もすることもなかったが、生きているような気がしていた。冷房をつけていると、皮膚の調子が悪くなり、あまりつけないことにしていたが。今年も祭りの音もなく、静かで良かった。変な街宣車が声を上げているのがうるさかったが。説得力のあるツイートでもしてくれれば、そんな労力は不要なのだが。観客のいない五輪に、スポーツの真の意味を考えさせられることと同じように、アルコールの無い店の席で、食事することの意味を僕はもう一度考えてみたい。パンデミックが示唆することは、狡猾になることそのものだ…。目を閉じれば、それ以前の生活によって失われていたものについてを、思い出してしまう。むしろ通信環境が整っていた現代だからこそ、現れたウイルスのようにも思える。そうではないとしたら、工業化はここまで進んでいなかったであろうし、通信環境が工業化を助長していたのである。街に出れば、シャッターを降ろしている店も多い。土曜や日曜の昼間から、まるで商売を放棄しているかのようにも見える。それを見た時に、飲食店や、パチンコ屋や、本屋や、喫茶店、旅行代理店といったものの存在意義についてを考えてしまうのだ。夜の光を見ていると、でも、昔のことを思い出してしまう。五反田の駅前で食べた寿司だとかのことを、赤羽の駅前の景色を交えながら。僕はそこで、てんやの場所を交番で教えてもらった…。500円の天丼を食うためだけだったのに、それを尋ねた僕に若くて、やや垢抜けない女性警官が、「私知ってるよ」、と言ったのは、最近のようでいて、すこしだけ昔のできごとだった。


五輪を見ていると、スケボーや自転車のスロープ競技といった五輪らしからぬ競技がいつもやっていて、まるでエンタメを見ているかのようであった。マラソンと同じ金メダルとして扱ってよいのか、重さが異なるものにするのかを、ボブデュランのノーベル賞よろしく、結論は出ないというのに、考えてしまう。夜は光の無い、深夜で、でも、僕自身こそ、生きる意味についてを考えるべきだということを気づかされていた。


散文(批評随筆小説等) 東京オリンピックと影 Copyright 番田  2021-08-02 01:09:05
notebook Home 戻る  過去 未来