哲学入門備忘録
ふるる

数年前に戸田山和久著『哲学入門』ちくま新書 を読んだ備忘録です。PCあさっていたら出てきました。前半は自分用の疑問をはさみつつのまとめなのでスルーしちゃって最後らへんの感想などご興味ありましたらお読みください。

意味→目的→表象(目に映るもの)→表象が意味を持ち、かつ間違えることがあるのはなぜか→意味を持っているのは、生きるのに必要だから。

情報とは、つながってるものである。そのつながりの一つを選択して意味のある情報として受け取っている。



第1章 意味

意味はあるのか、何か、どういう仕方であるのか
=意味は、「目的」と密接な関係を持っている。
「目的」なくして、「意味」は存在できない。
ロボと人との違いのように。
ロボ自身には自分の欲求に基づいた目的がないので、「意味」を理解できない…というか、意味を理解している証拠=自分の欲求に基づいた目的があって何か行動している、という論法
目的があって何か行動している=意味を理解している、と言える。言えるのか???
確かに、植物人間が意味を理解しているか、いないか、というのは、その人が、何か欲求があって、何か行動(返事するとか、声を出すとか)しないかぎりは、心とか、意志とか、あるって分からない。
動物が捕食する時も、「自分のやってることの意味を理解している」と言える。
それじゃあ、生き物が何かをやってるというのはどういうことかっていうと、まず、何かを認識し、判断し、っていうことになる。
認識=表象について、表象の本来の機能を進化的に、物理の中で説明してみる。ここから第二章。つまり、生き物はいつ、どこらへんで、獲物を獲物として認識できるようになったのか、ということ??


意味を理解するロボットまたはコンピューターを作るにはどうしたらいいか
物理法則にしたがう機械に「意味の理解」ができるのなら、物理的世界に書き込めるのではないか。

・チューリングテスト
自分が人間であることを審判に分からせるのが役割のコンピューター
このコンピューターの勝率は50%でよい。審判がどっちが人間か判断がついてないということだから。
このテストにコンピューターが合格するのは難しい。
イライザはいい線いった。うまく相槌をうてるから。
しかしイライザは「わかっているふり」をしているだけである。
知能を振る舞いのパターンと考えるべきか、その背後にある何かと考えるべきか。
知能、知性というのはふるまいと分けて考えるのが難しい。

イライザは形式的記号操作をしているだけである。我々の意味の理解とは違う

「中国語の部屋」サールの主張
英語しかできない人が部屋に入ってる。ジョンは中国語を理解していないけど、マニュアルにしたがって中国語の文を作ることができる。
プログラムは統語論的でしかないが、心はそれ以上のもの「内容」を持っている。
(統語論=文法を守れ、ということ。意味は関係ない)
サールは、心は文法を守って文を作ってるんじゃなくて意味を理解して作ってると言う。
そもそも計算システムは知能を持てない。計算とは記号操作でしかないから。
サールへの反論
サールはカテゴリー錯誤をしている。サールはジョンと中国語の部屋を一緒に考えているが、二つは別物。中国語の部屋はひとつのシステムで、システムとしては中国語を理解している、と言えなくもない。
サールの反論。ジョンの頭の中にマニュアルがあったとしても、ジョンは中国語を理解していないし、それに準じた行動も起こせない。
ジョンやイライザが意味を理解していないと言えるのは、行動に移さないから。
会話以外何もしないということが、意味を理解していない、ということにつながってしまう。
では、体を与えると?
それでも、ロボットは理解して体を動かしているとは言えない。ジョンが出した命令通りに動き、ジョンは出した命令の意味を知らない。

信原幸弘「人間は問題解決の主体だが、ロボットはそうではない」
欲求や欲求にもとづく信念は、環境適応への手段だが、ロボットにはそれが必要ない
ゆえにロボットには欲求も信念も心もない。
自分のために、何かを要求するロボット、機械が自分自身の問題を持つようになったら、「心を持つ」と言ってよい。
ロボットに心を持たせるためには
1、何かしないと存続できない仕組み
2、自分のプログラムを書き換えて行動の幅を広げられる
3、自己を存続させたとき、同じものを複製できる
ロボは、心を持ち、意味の理解をもつ前に、まず生きなければならない(そうなの???)

○意味という概念が、目的という概念と密接な関係を持つ

意味とは何か、意味を理解するとはどういうことか=論じるフィールドとしては、生き物が生き残るために何かをする、という場面でこそ問われるべきである。
○生き物が何かをする=○情報を取り入れ、行動するプロセス=認知科学っていう

認知科学での認知観・人間観とは
「古典的計算主義」
表象(なんかあるっぽいもの、目に映って脳で認識された何か)
頭の中の表象はどんな形をしているか。統語論的構造を持っている=部分から組み立てられて、組み換えが自由で、部分と構造で全体の意味が決まる、ということ。
「林檎とお皿と赤いと青い」はバラバラで組立自由。
思考の言語仮説という。あくまでも仮説。(コネクショ二ズムというのもある)
しかしこれでいくと、我々も機械とおんなじようにものを考えてるとなる。
我々の認識してる表象自体に意味があるってことなんじゃないの?
★では、そもそも表象が意味を持つとはいかなることか。

表象が他の解釈者なしで何かを意味するとはどういうことか。
=ミリカンによれば、進化の過程で生存に有利だったから、捕食者にとってネズミはネズミを意味するようになった。
「因果意味論」=ネズミが出てきたら「ネズミだ」と思う。ネズミ以外では思わない。
モグラが出てきても「ネズミだ」と思う場合、猫の思う「ネズミだ」はモグラとネズミのこととなる。
???

「意味する」=正解と間違いの区別を前提としている。しかし、因果意味論では、正解と間違いの区別がなくなる。間違いが正解の中に取り込まれてしまう・・・???

だれが正解と不正解を区別しているのか???

「ターゲット固定問題」
何故特定の対象であるネズミを、「表象の原因」として取り出せるのか??という問題。ネズミこそが表象の原因であり、表象の意味するところだとする決めてが何か、という答えを「因果意味論」は出すことができない。

ミリカンの「目的論的意味論」=要するに、進化や歴史の過程で、猫にとって、ネズミの本来の機能(ネズミをネズミと認識させるような本来の機能がネズミ自身の外見やらなにやらにそなわった)が定着した、みたいな感じ。

第一段階「本来の機能」
表象間違いとは、本来ネズミを表象するための表象がモグラによっておこされた。
鋏の本来の機能は切ることだ。
ネズミ表象=「ネズミを意味することが本来の機能であるような表象のこと」
表象間違い=表象の本来の機能(ネズミを意味する)と不適切な因果プロセス(見間違えとか)の二つによって分析できる
つーことで、「本来の機能」の概念を自然化すれば、その特殊ケースとして表象の意味も自然化できそう(自然化=物理的なところに埋め込むってこと)

第二段階「本来の機能」を因果関係に還元(自然化)する

本来の機能を自然化するのはむつかしい。本来の機能には「製作者の意図」があるっぽいから。ミリカンは、「生きるのに有利だったから」という説明に頼る。

第三段階「本来の機能の自然化を意味の自然化に当てはめる」
ネズミ表象は何のために使われるのか?
そもそも「意味する」とは生き物が何かをするという場面ではじめて生じるものだからこれはOk。
トムの表象Xがネズミを意味する=トムの先祖がネズミを食べて有利だった
トムのネズミ表象は「捕食」という機能ゆえに存在している。だから、因果連鎖の中の「ネズミ個体」だけをピックアップできる。(ターゲット固定問題に解答できている)

批判1 人間のもつ表象全部にもあてはめられるのか?
人間の持つすべての表象に同じ意味論が与えられなければならない、という決まりはない。
人間の使っている表象は、原始的なものから言語を会するようなものまでさまざまだから。まずは原始的なものからはじめようか。

批判2 ミュータント・キムは赤いものを「赤」とはせず「スノーフのいないところ」と表象する?(その世界に赤いものが他になければそうだけども、議論にならない)

批判3 目的論的意味論では、カエルが小さくて動くものを何と表象しているのか区別できない。ハエとBB弾。反論。カエルの神経系を調べればできなくもない。あと、ハエとBB弾の区別ができたとして、何の説明ができるのか。

批判4 スワンプ・マン
脳細胞までまったく同じだが、歴史を持たないレプリカの「表象」は何も意味していない。(歴史を持たないレプリカが表象を持つとは全然思えないんだけど…)

本来の機能が自然化できれば、意味も自然化できる。
本来の機能を自然化するために、ミリカンの進化に訴えた議論がある。

第2章 機能(いま、そこにないもの=本来の機能は、いつ、どこで生まれたの?)

○「本来の機能」とは、意味、目的、自由、価値、のハブである。
「今そこに無いもの」へのかかわりは、生命を特徴づける重要な性質だとみなすことができる。遺伝とか、免疫とか。
本来の機能の自然化=いまそこにないものへのかかわりが自然界の中でどう湧いて出てくるのか、きうるのか、というお話。
ミリカンは、本来の機能は今何をしてるかでなくその歴史が大事っていった
でも歴史(進化論)を知らんでも本来の機能は分かるじゃない?っていう反論があるとして…
ミリカンは概念分析じゃなくて理論的定義なんだから反論は成り立たないと言っている。
ミリカンは我々が持っている機能概念の分析はしていない。
そもそも分析哲学は、哲学者の判断に基づいて概念を分析しているから、なんだかなー
それに対するのが「実験哲学」というもの。アンケートとったりして。
哲学者の直観てあてにならないよね、ということが分かった。そりゃそうだ。その時の流行とかあるだろうし。
分析哲学はつきつめると、「どっかに真の概念がある」みたいな話になっちゃう。これはいただけませんねー

そもそも哲学は、色々考えた上で理論展開していき、さらに新しい概念を作るのに従事すること。
哲学は概念ではなくそのものを探求すべきである。新しい定義をやり直すのが「理論的定義」ということ。
理論的定義が良いかどうかはそのものの目的に照らして判断される。
自然界の中にある「本来の機能」そのものについて、新しい概念を定義したい・・・作者

ミリカンはどんな理論を作ろうとしてるの??
機能カテゴリーの特徴
1、素材・性質は共有されなくてよい
2、機能を果たしているか、可能か、は要求しない
3、本来の機能に訴えて定義される。壊れててもよし。
ミリカンの目標は、機能カテゴリーを統一的に(起源論的に)説明してくれる理論。しかも自然化できるし。雑多な現象が統合的に説明されるようになるって。なるの?


第3章 情報(情報の流れの中に、表象はどうやってあらわれるのか?○まず情報ってどういうものかおさらいしよう)情報とは、情報同士がくっついているものである。
あれがおきるとこれがおきる、というひとつながりのもの。

情報はただある出来事が起きた、というもの。解読者は後から。
情報の流れは、あれが起きたからこれが起きた、という仕方で結びついておきる。
知識は情報を信念で切り取った一断面である。

解読者を前提しない情報 大昔の隕石とか。調べたら分かるけど、人がいてもいなくてもそれは何かしらを伝える。

情報とは何か」とは何か?
情報を一つの概念に統合し・・・または複数のものの相互関係を明確にし・・・情報概念がもつ有用性と限界を考える。

情報A 知識
情報B 内容を含まない、量としての情報(意味抜き平均情報)
情報C 複雑なメッセージほど情報豊か その列のアルゴリズム的複雑さで定義したい。これは本書では扱わない。

AとBをくっつけて情報概念を作る。

Bシャノンの情報理論とは
「通信の数学的理論」を発表した人ね。
通信システムの定義 発信源、送信機、通信路、雑音源、受信機、受信者

確立pの事象Aが実際に生起したことを伝える情報に含まれている情報量を
I(A)=-logpとする。対数の底は2、単位はビット

すごく珍しいことが起きたことに含まれる情報量はp=1/1024 
ごく当たり前ならばp=1/1=0
この情報量は「自己情報量」という

情報源が平均として生み出す情報の量を定義する。情報源のエントロピーと呼ばれる量

コインを情報源と見た時に、それが生成するメッセージの平均量を単位として決めたい。情報源が情報を生み出す確率を調べて全部足す。
フェアなコインのエントロピーは1ビット、偏ったコイン(表しか出ない)のエントロピーは0.6ビット。フェアな方が情報量は多い。

シャノンは情報源ではなく通信路に関心があった。
通信路容量ビット/秒を考える。
情報を効率よく信号にできると(符号化)たくさんの文字を送れる。
シャノンは符号化に関する2つの定理を証明した。
1、符号化をがんばれば通信速度を上限に近づけられるが超えることはない
2、符号化をがんばれば雑音による誤りの頻度をいくらでも小さくできる

ハリーナイキスト データ伝送の最大速度を決める要因は信号の形(短形波がよい)と符号化の仕方と見出した。
ハートレーすべての記号列は可能な列であるとした(モールスも英語も一緒。意味でなく記号と考える)
情報量と可能性は逆の関係にある。片方増えると片方減る。他の語を選択するという可能性を狭めると情報が生まれる。
そんなこんなで「確率メカニズムによる選択が情報を生む」という発想が生まれた。
情報を「内容」ではなく確率で生まれる記号と考えた。=「意味抜き平均情報」
何かが起これば情報となる、ということになる。観測者はいらない。

ドレツキの仕事
知識は情報の流れのなかの一部とした
知覚や知識は情報が先にあって、その後で生まれたもの。
この情報の意味論はシャノンの理論を下敷きにできる。

ゼロックス原理
AがBを伝えBがCを伝えるならAはCを伝える。

ということは、SがFであるという情報の内容=SがFであることを生み出した情報量

となる。なるらしい・・・私にはわかりませんでしたー

要件」
1、もし、ある信号がSがFであるという情報を伝えるなら、SがFであることによって生じたのと同じ量の情報をその信号は伝えなくてはならない。
2、現にSがFでなければならない。(間違ったお知らせは情報ではないと考える)
3、信号がsについて運ぶ情報の量は、SがFであることによって生み出されたその量でなくてはならない。

情報内容の定義
「信号rがsはFであるという情報を伝える⇔rという条件のもとでの「sがFである条件つき確率」が1である。

この定義の重要な帰結は、一つの信号はいっぺんにいくつもの情報を伝えることができる。それどころか、いっぺんに無数の情報を伝える。

rのもとで条件付き確率が1になる事象はいくらでもある。そうなの?
信号がある情報を伝えるなら、その信号はそれに入れ子になっているあらゆる情報を伝える。それは「意味を含んでいる」こととは別のもの。

○情報は、出来事から出来事へと流れていく。
1、情報の担い手(信号)となるためには、何かを表すという機能をもっているもの(表象)である必要はない
2、情報の内容は、受け手による解釈とは独立して、情報源と信号という二つの出来事間の客観的関係によってきまっている。

ドレツキは情報の流れとしてみた世界の中に「知識」を位置づけようとする。

知識の定義
AがPということを知っている⇔AのPという信念がPという情報いよって因果的に引き起こされた
つまり、知識は情報によって生み出された「信念」である、てこと。
知るってことは、信念という形で切り取られた情報の流れの一断面なんである。

情報の流れがあるためには、出来事同士が「あれが起きているならこれも起きている」という仕方で互いに結びついている必要がある。
我々の認識する因果的世界は、そのままで情報の流れる世界でもある。

○情報の流れとしての世界には、出来事はいまそこに起きていない別の出来事「について」の情報を担うことができる。これは「意味の素」となりうる。


第4章 表象

記号や心的表象は、自分以外の何ものかを志向する。「志向性」という。
間違いがおこるのは、そこにないものを志向できるから。
「志向性」は「について性」「間違い可能性」によって特徴づけられる。
両方持ってるのを「志向性」について性しかないドレツキの情報みたいなのは「志向性モドキ」と呼ぶ。

どうやって自然界から志向性モドキからの志向性への進化があったのか?
自然界を流れる情報がいかにして志向的表象にまで進化するのか?
をたどる。モノからココロがどうやって発生したのかなってこと。

「自然的記号」間違わない。暗雲の後には雨が降る。
「志向的記号」間違いのありうる記号

どうやって無数の自然的情報から一部をよりわけて志向的記号に変換してるのか?

生き物が利用できる自然的記号については、記号とそれが表すものとのつながりが自然法則である必要はない。これを「局地的情報」とミリカンは呼ぶ。普遍的法則を要求するドレツキの情報概念は「文脈自由な情報」である。
情報同士につながりがあればよく、偶然ではなく普遍法則でもなく、まあまあつながっていればよい。
そんで「局地的反復自然記号」であればよい。この繰り返しが成立する領域を「準拠領域」と呼ぶ。



記号生産者の本来の機能は、消費者がうまく利用できるような真なる表象を生み出すことであって、自然的記号を生み出すのはその副産物ないしはそのための手段である。
どんな出来事も何かの自然的記号なのだから、使い道のある記号を生み出すから、特定の自然的記号が志向的記号になるのだ。

では、間違いうるような形で表象(志向的記号)をもつことにどのような利点があるのか。なんで我々は間違えるのか。

生き物も自然的情報の流れの中にあるのだが、その情報のうちあるものを独特仕方で利用する。

第5章 目的

間違いとは、表象していることがらが現実に成り立っていないということ=
いまそこにないものの表象、志向的表象=
目的・目標を心に抱くことができる。

人はどうして「目的手段推論」を身に着けたのか?
いろんな選択肢の中から一番目的に合ったものを選択するということ。
そのためには、現実にはない、間違いうる表象が必要になる。
ではそれは、どのようにしてあらわれたのか???

目的手段推論は、指令オシツと行為オサレツが存在して、それが分離されて自由に組み合わせ可能ということを要求する。

オシツオサレツ動物にできないこと
・可能な行動を新しい仕方で組み合わせできない。
・使い道のない情報を保持しておいて、いざというときそれを使うことができない。
延々と巣穴チェックを繰り返すハチは、今さっきチェックした、からもうやらなくてよい、ということができない。

どうすれば実現できるのかわからない目的を持つことができるためには、人間の表象能力はどのようなものでなければならないか。どうやって生まれたのか。

オシツオサレツ動物の賢いものは、対象や縄張りの空間配置や事象の時間的随伴関係を表象し組合すことができる。

人間は、いかなる特定の用途ももたない表象を持てる。なぜか。

未来への準備のため。
未来が予測できることと、それを目標に持つこととは違う。
未来が予測できても、工夫はできない。しっぽを挟まれないように早く走る
目標を持つと、工夫ができる。しっぽを挟まれないようにしっぽを立てて通る
未来の予測を、いまここで制御するための導きとして用いることができるかどうか。
が目標を持つか持たないかである。

目標が実現されるように行動を調整し導く表象

目標に達しているかどうか判断できるためには、目標と自分の行為結果を比べることができなければならない。どちらも同じ言語でコード化されている必要がある。

事実はこうなってますという信念を持つことの意味、どうすればそれが持てるのか。
使い道のない情報・信念を形成できることにどんな利点があるのだろうか。

心の中でシュミレーションができる(ポパー型生物である)ためには、表象と行動に「タメ」が必要。
「タメ」がないと、表象が出たらすぐに行動となってしまうから。
その「タメ」がとりあえずの、無駄な信念を持てるってこと

どんなシュミレーションシステムが必要か。
・内容に拘束されない自由な推論が可能である
そのためには、表象の一様なコード化が必要
(コード化していないと、命令が行動に専用化しちゃって、バラバラに組み合わせられない)
・主語と述語に分節化され、否定形をつくることができる(ような表象
表象同士のつじつまが合っているかどうか。というのが、シュミレーションのチェック方法になる。矛盾してなければOKみたいな。
文に似た構造をもつ必要がある。
シュミレーションしてみて、矛盾していたり、間違っていたりしたら、やってみる必要はなくなる。

・ホンマもんの目的手段推論

ホンマもんとは、欲求と事実的表象(信念表象)を組み合わせて目的に適った行動を生み出すシステムのこと。
著者はこういう複雑なシステムも、原始的なものから進化したのだ、と言いたい。

この能力は、それ自体に適応的価値があったために選ばれて進化してきたというより、他の一般的な能力がその利点のために選択され、その副産物として手に入った、という考えもアリ。

277からよくわからん

「人間は、目的手段推論というちょっとした拡張機能つきのオシツオサレツ動物」なのである。
この拡張機能は、人間らしさのルーツになっている。「自由」とか「道徳」とか…


自由

人間の自由は、反省的自由である。というか色々あるけど、それが持つに値する自由である。これは、先の表象の進化のたまもので、自分の目的・欲求と信念についての表象を持つことができたり組み合わせて目的手段推論ができるようになる。
反省的理由は、自分自身の目的をコントロールすることを可能にした。

しかし、これだけでは、機械の持っている「自由」とさほど変わらない。
人間はその他に「道徳」を持っている。


道徳

自己は実態というより組織のされ方であり・・・
自己があって物語を語るのではなく話が自己を作っている。
自己と呼ばれる組織化を経由している行為が、責任ある自由な行為なのである。
(自分のキャラに一貫性があり、そのキャラのように行動するってこと)

道徳的に重要な自由の持ち主として認めてもらえるかどうかは、その人が責任を負わせたり引き受けたりするゲームに参加しているかどうかによる。
行動に責任をとるという実践が、ホンマもんの自由意思を生み出しているということになる。見かけ上は。
反省し、責任をとろうとするとき、次は失敗しないように、自分を再プログラミングしている。そういう自由を持っているし、持ってしかるべき。


とても一言では言い表せない。心っていうのは、進化の過程で生まれた「あれが来たらこれをしろ」の進化バージョンのシュミレーション能力の機能が拡張されたもの。っていうことかな。

シュミレーションできないと、あれが来たらあれを捕まえる、という単純な行動しかできないし、イレギュラーなことに対応できないし、あれがきたら、の「あれ」を別な何かに変更もできない。

このシュミレーション能力が人間の持つ「自由」や「道徳」にも関わっていて・・・。
自由って色々種類があるけど、我々が持つに値するとして採用している「自由」は、好きなように目標を設定して、それに向かったり、失敗したら目標を変えてみたりやり方工夫したり、っていうもの。これはシュミレーション能力がないとできないこと。

で、「道徳」は「その人が自由かどうかの指標」みたいなことを言ってて・・・
つまり、「その人が自由にふるまえているかどうか」=「その人が、自分を客観的に見れて、反省したり、目標に向けてがんばっている」ってことで、「反省する」ってことは「より善き自分になるように反省する」ってこと=「道徳的な行動」ってことだから。

自由とは、行為の結果から反省することができること。

行為の結果から反省することができるということは、「自分のしたことの責任を取ろうとしている」ということで、それって「道徳的」ってことらしい。



自由で道徳的というのは、つまり、過去の経験から学んで良い道を選べて、自分のしたことに責任が持てる。ということ。

まとめみたいな感想みたいな・・・・・・・・・・・・

ロボットに心があると言えるのはどんな時か。とか、情報って何かとか、人はどうして目的手段推論を身に着けたのか、とか、「持つに値する自由」ってどんなかとか、「道徳」っていつごろ生まれて、何なのか、とか書いてあった。
なるほど、人に特有のものと思われている「自分を客観視できる力」や「それによって目標を立てて努力できる能力」も、生物にもとからある機能が拡張されたものなんだと、一応納得できます。著者は、「心」と「生物としての機能」を分けるのではなく、心も進化の過程で生まれた機能の一つなんだ、というふうにしたくて、丁寧に分かりやすくゆっくり説明しています。

ここには無いものを心に描いて、目標にして、やり方を色々とシュミレーションする、といういたずらっ子でも持っている能力って、もとからある機能の拡張版とはいえ素敵だなーと思います。

まず、ないものを心に描くっていうことが結構難しい。さらに、それを色々に組み合わせるっていうのも、虫にはできかねる。

普段気にも留めないようなことがすごく不思議に思えてきます。

心があるって何?意味って何?意味と機能が関係してるなら、機能って何?いつどんな風にしてあらわれたの?


例えば、間違いうるような形で表象(志向的記号)をもつことにどのような利点があるのか。なんで我々は間違えるのか。(猫を見て狸と勘違いしたりってこと)

間違いとは、表象していることがらが現実に成り立っていないということ=
いまそこにないものの表象、志向的表象=
目的・目標を心に抱くことができる。

人はどうして「目的手段推論」を身に着けたのか?
いろんな選択肢の中から一番目的に合ったものを選択するということ。
そのためには、現実にはない、間違いうる表象が必要になる。
ではそれは、どのようにしてあらわれたのか???

未来への準備のため。
目標が実現されるように行動を調整し導く表象が必要だった。
また、手段のシュミレーションのために、「タメ」の時間が必要。間違いうる、ということは「タメ」がある、ということである。

サンデルさんが正義論は「幸福の最大化」「自由の尊重」「美徳の促進」を中心に展開されると言っていて、色々な訴訟問題の例から君ならどっちを正しいとするか、という問いかけをしているんですが、どっちが正解か、正義か、というより、選んだという行為に責任を持つとか、選んだ道が最善ではないと分かった時、反省したり、謝ったり、次失敗しないようにする、っていう態度こそが正解で正義なのかなあと思ったりした。
自分勝手な道ばっかり選んで後悔するもよし。それで一生幸せならそれも正解。でも、協力体制を推している人類の中にあって、一生自分勝手で幸せを保つってむつかしいと思うけどな。

概念を力技で頑張って進化の過程に組み込もうとしているので、この概念が現れたのはこの時で、その時生物はああでこうで、というのをとても丁寧にしています。

例えば「情報」はいつ現れたのか。人がいなけりゃ情報も存在しないのか。ある、と著者の説明。「情報」は出来事と出来事がつながっていたらもう情報なんですって。それが情報学の定義なんだそうです。なので、ぴかっと光って雷が鳴ったら、人がいようがいまいがそれは情報として存在し、流れている。でもって生物は生きるためにそれを利用し始めた…

その「情報」が「受け取られ」「○○である」と心に描かれるようになったのはいつごろで、その時生物の中では何が起こっていたのか。

「○○である」には「間違い」がある時があるけど、それって何のために間違えるのか。
結論から言えば、「間違い」っていうのは「ここには実際にないものがぽんぽん浮かんじゃう」ことで、何の役に立っているかと言うと、行動→結果のシュミレーションをするため。
「ここには実際にないものがぽんぽん浮かんじゃう」能力は、人間を人間らしくしている「自由」や「道徳」にも関わっていて。

我々が持つに値する自由は、過去から反省して、より良い道を探れる、自己をコントロールし、オペレーションできるっていう自由。いくらお金持ちだって、親に人生のレールを敷かれてたら嫌だもんね。

そして道徳とは、過去から反省して、より良い道を探れる、自己をコントロールし、オペレーションできるっていう自由をもち、なおかつ、自分のしたことに責任を持とうとする態度(私は良い人です、人間社会の協力体制にコミットしていますよ、という態度)のこと。

一番面白かったのは、私たちが賞賛したり非難したり、同情したりしなかったりの基準が、相手に選ぶ自由があったか否かだということ。

やむを得なく悪いことをしたら、許しちゃうし、逆に自分の意思で自由に選んだ悪いことだと、非難する。
偶然いいことをしたらあまりほめられないし、自分の意思でしたいいことなら褒められる。
寄付の対象もそう。自分の意思でニートならお金をあげたくないけど、不慮の事故に合った人ならお金をあげる。

こう、自由意志で行ったかどうか、というのは社会の価値観にがっちり組み込まれているんですが、自由意志は実はないんじゃないの?という証明を現代科学はしていってるから、(まったく同じものでも、右にあるものが良いものだとしてしまう癖が人にはあるらしい)いつか「自由意志はない!!悪いこともいいことも、本人のあずかり知らぬところでされる!!」ってことになっちゃって、そうすると我々の社会はどうなっちゃうんだろ?というシュミレーションもしています。

人には自由意思がないとしても、アイスどれを食べるかの自由はある。っていうのが良かった。

なんで、自由意志と価値観ががっちりなんですかね?自己責任とか。自分で選んだ道には自分で責任とりなさいよ。っていう???

自己責任と言えば、これは株の取引にだけ使える言葉なんだって。リスクを説明してもらった上で選ぶなら、自分の責任ですよ。って言う。でも、人生とか会社とか結婚、働く場所、なんでもだけど、未来が分かっててリスク説明してくれる人なんていない。だから選んだ自分の責任でしょっていうのおかしいよね。



散文(批評随筆小説等) 哲学入門備忘録 Copyright ふるる 2021-07-20 18:24:07
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