夏はもう秋
山人

 ヒグラシが鳴きはじめ、アブラゼミからミンミンゼミと蝉の声は種類を増し、最終的にはミンミンゼミが最後となる。里では秋に鳴くツクツクホウシなどがあるが、こちらではあまり聞かない。また、これから八月の声を聞くと、イヨシロオビアブ(通称 メジロアブ)が獰猛に集ってくる季節だ。衣服の上からでも頭を皮膚にこじ入れ、口を突き刺し血液を貪り飲む。アシナガバチの営巣も見られるようになった。
 野のススキも膨らみを増し、ヒヨドリバナ(ヨツバヒヨドリ)も花をつけている。これから咲くクズもフルーツに似た芳香を放ち、虫をよぶことだろう。
 先週から開始された県道除草は刻々と進んでいる。この作業は元請けではないため、一日のうち何度も元請けが来て作業写真を撮る。刈り払い機二台を前に配置し、三番目と四番目に熊手だの鎌だのを持ち、草を弄っているという図柄だ。加えて、それらの作業員の安全や、交通を阻害しないために、誘導棒を持った交通誘導員を一人配置する。それらの作業写真を一日三回ほど現場監督が撮りにやってくる。その都度、持ち場を離れて画像を撮りたい場所に集合させられ、実に面倒くさい。
 県道の草刈りは、アスファルト端から八〇センチ刈り、側溝があればその外側を八〇センチ刈る。また道路わきの側溝の隣が傾斜していれば、その分高く刈らなければならない。そしてもちろん、刈り払われた草や側溝の中に入った草はきれいに除去しなければならず、刈る時間の二倍から三倍の時間を要する。写真では、刈る人、片づける人、誘導する人という建前ではあるが、我々は自分の持ち場は自分で刈って片付けるというスタンスでずっとやっている。刈払いに飽きると片づけるというスタンスは、肉体的にも酷暑の中では効率的だ。 
 数年前、河川除草で水だけをがぶ飲みし、家に帰ってからビールの大瓶を二本空け、エアコンをガンガン利かせてパンツ一丁で寛いでいた時にそれは起こった。体を動かした途端、いきなり足全体の痙攣が起こり、背中やあちこちが攣ってしまい激痛となったことがあった。幸い妻にその心得があったらしく、蒸しタオルで温湿布をしてもらい、事無きを得たことがあった。以降、酷暑の時には必ず梅干を小瓶に詰めて持ち歩くようになったのである。また、昨年は盆明けから極めて暑い日が数日続き、期外収縮も多く発生した。ごまかしごまかし刈り払いを続け、三十分ごとにキンカンを体に塗布し皮膚を冷やした。加えて昨年は、ユキツバキが大量のチャドクガの幼虫に食害され、私たちも漏れなく刺され、全身痒みと湿疹に明け暮れたのである。 
 まさに命の危険にさらされる日々ではあるが、何の能力もない私に何ができるというのだろう。せいぜいこんなことくらいだ。仮になにかの技術が多少あったとしても、六十を越えた人間を戦力として見てくれる会社は稀だ。ただ、こんな危険で体力の限界を彷徨うような場面ではニーズが無いことはない。そこにしがみつけるだけマシという事だ。
 九月になれば多少暑さは緩和されるだろう。しかし私には九月の個人的な登山道除草が待っている。土日と苦行を行い、平日はきつい山林労働で体を休めるというナンセンスな日々が続く。しかし、それをやらないと生活できない。まさに命を削りながら生き続けるというおかしな話だ。そんな中でも夜明けの雲海や、沈みゆく赤い稜線、夜の山道に飛び交う生き物達や忍び鳴くカエルの声、下界の集落の灯り、いろどりを開始した樹林帯の紅葉。そんな場面に出会うと、悪くはないと思うのだ。逆にそれしかないだろうすら思えてくる。
 


散文(批評随筆小説等) 夏はもう秋 Copyright 山人 2021-07-20 05:57:05
notebook Home 戻る  過去 未来