広くて静かで誰もいない
コーリャ
「あれからどのくらいたつの?」
「もうすぐ3年」
「ちょうどこのくらいの時期だったね」
と言って彼はガラスの外に目を移した。
人びとが川のように行き交っている。
俺もそれを眺めた。
「まだハガキは来るのか?」
まだハガキは来る。たいていは絵葉書だ。この時期には、夫婦で揃って旅にでかけているようで、気持ちのいい景色の写真が載っている。空色の海原。広大な花畑。大きな時計塔。端正な筆致で、時候の挨拶から始まり、申し訳にこちらの近況を祈る文句で締められる、お定まりのテンプレートに沿った以外のことは何ひとつ書いていない。
「来るね」
「そっか」
彼はコーヒーカップを上げて下ろす。俺もつられて上げて下ろす。店内のささやかな喧騒が聴こえている。
「今年も行くんだろう」
「そうだな、多分」
「あそこは、町から離れた、気持ちのいい場所だから」
彼は顔を背けたままで言った。
「そうだね」
外では人の川が絶えず流れている。それから、俺もずっとそれを見ていた。
花束を買ったあと、駅まで来て、大きな葉脈のようにかかげられた路線図を眺める。値段を確認して、切符を買う。子どもの頃はすぐに切符を失くした。今になっても、その頃のことがどことなく忘れられずに、ポケットに入れた切符を固く握っている。ホームに立って、街を眺める。ビルや家屋、その音や空。どこかへの急行が過ぎ去る。人びとは一様に、同じ方向を向いて立ち、何かを待っている。ほどなく列車が来る。それに乗り込む。ずいぶんと空いている車両だが、俺は座らなかった。そのかわりに、窓際に立って、過ぎていく景色を、なんとなく眺めた。
終着の数駅手前で下車する。降りるものは俺だけだった。いつもここでは同じ匂いがしている。そしていつもここでは同じ季節だ。周りの風景もだいたい同じで、時そのものが保存されているように感じた。改札を抜ければ、迷うことのできないような構内で、外に出ると、バス停と、数台のタクシー。最初の車両のドライバーは、新聞紙を広げているが、その後のものには、誰にも乗っていない。日差しがすこし強くなってきていて、周りが眩しくて、すこしぼうっとする。停留所のベンチに座る。
バスの中には、同じくらいの年頃の男女の子どもが、最後部で手を繋ぎながら眠っている。運転手はときどき言葉ではないようなものを呟く。今度は腰を下ろした。ただ、景色を眺めていると、さまざなことをとりとめもなく思い出す。思い出は、俺だけのもののはずなのに、俺はそれが俺の体のどこから湧き上がるかを知らない。遠くに見える山並みや、光景を渡る風には、思い出はないのに、俺はそのことを思う。バスはガタガタと揺れながらカーブを曲がり、道を走り続ける。俺は肘を窓枠について、ただ運ばれていく。俺は運ばれ、世界に置き去りにされない。思い出だけが、そこに永遠のように留まっている。俺はあるところで、ボタンを押す。タラップを降りるときに、チラリと最後部を見たが、子どもたちは、初めにみた時とまるで同じように、眠り続けている。
バスが去っていく後ろ姿を、見つめて、また歩き出す。とても静かな場所だ。静かで広くて何もない。石たちが林のようにどこまでも立っている。空がさっきよりも明るくなって、潮の匂いがする。俺はだいたいの見当をつけて歩きながらあなたの名前を探す。遠くで煙が上がっている。見知らぬ名前をいくつも行き過ぎて、あなたの名前の刻印を見つけて、止まる。世界が風を運んでいる。俺は何も思うことができない。空から降ってきた光が墓石をゆくりなく照らしている。俺はしばらくして、手を伸ばして、触れた。涼しくて硬い。俺はそのままかがんで、花束を置いた。こんなことになんの意味があるんだろう。
「あなたが、こんなところに眠っているとはどうしても思えないんだ」
「人はあなたが死んだというよ。あなたがもう世界のどこにも、存在しないと」
「だけど、あなたは、俺のなかでいなくならない。あなたは、笑ったり、泣いたり、詰ったり、励ましたり、望んだりする。あなたの肉体は、砂になったり、海になったり、温度になった。それでもあなたはどうしても滅ばない」
「思い出が、俺の中にないように。世界が、俺の中にないように。あなたは、生きているんだ、俺と、世界と」
いつか、あなたは、広くて静かで誰もいないところに行きたいと言っていた。それでも、あなたは、こんなところに眠っていないだろう。あなたは、流れている。俺も、きっと、流れている。俺たちは、運ばれていくほかないんだ。それが存在するということで、それが生まれてきたということなんだ。俺は、また、人びとの中に帰る。あなたが、どこに帰るか、俺は知らない。思い出が、どこに帰るのか知らないように。世界が、どこに帰るのか知らないように。俺は知らない。ただ運ばれるだけだ。あなたが永遠になってしまったと人は言うよ。あなたが季節を重ねなくなったと。俺はそんなことを信じないんだ。永遠なんてなかったんだ。どこまでも、あなたは、運ばれていく。運ばれていってしまうんだよ。俺もそうだ。みんなそうだ。だから、いつか、離れてしまうときに、小さく、小さくなったとき、あなたは、ようやく辿りつく、本当に、広くて、静かで、誰もいないところに。いつか、あなたは、そこに辿りつく。でも、それは、そんなにすぐじゃないんだ。あなたは、長い流れのなかで、ゆっくりと、みんなと同じように、運ばれて、運ばれて、いくしかないんだ。