「言わなかったボタン」
道草次郎
報告。銀河辺境から。
説明が要る。
まず、
「言わなかったボタン」とは言わなかった時に押すボタンのことだ。
人間なにかと言いたいものである。
またそれと同じくらい言いたくないものである。
そこで考えられたのが、「言わなかったボタン」。
迷った挙句けっきょく言わないでおこう、
そんな時こそこのボタンの出番だ。
言わなかったボタンを押すと、宇宙へ向けて超短波が送信される。完璧に暗号化された言わなかったことが、時の果てまでずっと宇宙を漂うという仕組だ。
地球人類はおろか地球そのものが滅んでも、その信号は虚空をどこまでも貫いていく。
ちなみに、お察しの通りこのメッセージは通常の段取りを経て送信されたので、その限りではない。ゆえにどこまでも平凡に虚空をさまよい、やがてはどこかの知的生命体の目にとまることだろう。宇宙と時間の無窮の拡がりは、その可能性を否定するどころか指示すらしているのだ。
「言わなかったボタン」だけが、ある意味では最後の砦なのだとも言える。
じつは、このメッセージを書いている最中にも言わなかったボタンは何度か押された。ポケットにそれをしのばせ、いつでも押せるように持ち歩いているのだ。
わたしは、自分が何に対して何を行なっているのか、それを上手く言い表すことができない。
しかしながら、漠然と膨れ上がった何かの不当さへ向け、ボタンを押す度に抗議を行なっているような気もしなくはない。
完璧な暗号化を解くのはあるいは神かもしれない。なぜなら暗号化を施したのもまた神であるから。いや、それは蛇だったかもしれない。いずれにしろそのどちらかだろう。
わたしは所詮、神の手のうちにあるのだろうか。
最後の砦すらあらかじめ造営されたものであるのなら、わたしが操り人形をやめることは出来ないのだろうか。
しかし、考えてもみてくれ。
時は長い。
そして、宇宙も広い。
それは、神がそれを考えるよりずっと長いもののはずだし、広いもののはずだ。神を神たらしめるのは、神自身の予測不可能性にあるのは言うまでもないのだ。
銀河は無数ある。そこには知的生命体も無数にいるだろう。神の着る綻びたセーターの糸を引っ張るのは果てして誰かなのか。わたしは若い種族だからか、夢見ることをまだまだ諦められない。
わたしは「言わなかったボタン」を押すことで、もしかしたら永劫の闘いに明け暮れる種族の一員になっているのかも知れない。少なくともそう思うことで、わたしはわたしの「言わなかったボタン」を躊躇なく押すことができる。
わたしは屈しないだろう。
神もまたそれを望むのだから。
もう一度言う。
わたしは、屈しない。
報告おわり。星々の諸君らの健闘を祈る。