詩の日めくり 二〇一五年十三月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一五年十三月一日 「芸術は自己表現はない」


 自己の表現と、自己表現は違う。2015年9月29日のメモ「いまだに芸術を自己表現だと思っている連中がいる。きょう、職場で哲学の先生たちがお話されているのを小耳にはさんだのだが、お知り合いの詩人が、詩は自己表現だと言ってたらしい。詩や小説は言語表現だし、音楽は音楽表現だし、映画は映画表現だし、演劇は演劇表現なのだ。それ以外のなにものでもない。自己表現は単なる自己表現であり、それは日常、日ごろに行われる生活の場での、他者とのコミュニケーションにおける表現活動のことである。芸術活動とは、いっさいの関係などないものである。


二〇一五年十三月二日 「高慢と偏見とゾンビ」


 P・D・ジェイムズの『高慢と偏見、そして殺人』を読むために、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』上下巻を読み直したのが1年ほどまえで、読み直してよかったと思う。いま本棚にその3冊を並べてあるのだが、ここに、きょう買った、『高慢と偏見とゾンビ』を並べようと思う。パスティーシュ、大好き!


二〇一五年十三月三日 「こんな瞬間の美しさを」


 フロイドの『対』を聴きながら、付箋の長さが気になってて、その先っちょをハサミでチョキチョキしていたのだけれど、その切り取ったあとのものが、クリアファイルを取り上げたときに落ちて、その落ち方の美しさにはっとした。こんな瞬間の美しさを作品に定着できたらいいなと思った。いらないものの美しさ。


二〇一五年十三月四日 「隣の数」


 2015年10月22日のメモを、これから打ち込んでいく。BGMはナイアガラ・トライアングル1。メモにタイトルをつけてた。めずらしい。「隣の数」整数ならば、隣の数といえば、たとえば、2の隣の数は1と3である。ところが連続した実数においては、2の隣の数というのは存在しない。ある実数を2にもっとも近い数であると仮定しても、その数と2の間の数を無限に分割できるので(分割する数を0以外の実数とする)さきに2にもっとも近い数であると仮定した数よりもさらに2に近い数を求めることができるのである。ここで気がついたひともいるかもしれない。連続する実数においては、「隣の数」というよりも、「隣」という概念自体が無効であるということに。しかしながら、隣り合うことなく、数が無数に連なり合うという風景は、もはや実景をもつ、現実性をもったものでもないことに。このことは、つぎのことを導く。すなわち、実数は、じつは連続などしていないのだと。実数には連続性など、はじめからなかったのだと。というか、そもそものところ、数自体も現実には存在などしていないからである。したがって、連続する実数の隣は空席なのである。すなわち、連続する実数においては、数と数のあいだには、空席が存在するのである。つまり、数と数のあいだには、数ではないものが存在するのである。それを指摘し、それに名前を与えた者はまだいない。ぼくが名づけよう。数と数のあいだの空席を占めるものを「非数」と。ところで、この非数であるが、これは数ではないので個数を数えられるものではない。数に対応させて考えることができるものならば、数ではなくても、個数を数えることができるのだが、この非数は、たとえば、集合論で用いられる空集合Φのように、あるいは、確率論で用いられる空事象Φのように、いくつのΦとかと言ってやることができないものなのである。したがって、たとえば、1という数と2という数のあいだの非数の個数と、1という数と100という数のあいだの非数の個数の比較もできないのである。非数は、いわば、無限(記号∞)のように、状態を表すものとして扱わなければならないのである。この状態というのも比喩である。この非数の概念に相応しい形容辞が存在しないからである。ところで、この非数というものが存在することで、じつは、数というものが存在するとも考えられるのである。この非数というものがあるので、非数と非数のあいだの数を、われわれは取り出してやることができるのである。隙間なくぎゅうぎゅう詰めにされた本棚から本を取り出すことが不可能であるように、もしも実数が隙間なく連続していれば、われわれは実数を取り出すことができないのである。したがって、実数が連続しているというときには、この非数の存在を無視するならば、という前提条件を抜かして言及している、ということになるのである。実数が連続しているなどというのは誤謬である。数学者たちの単なる錯覚である。ところで、話はずぶんと変わるが、1や2や3といった数は、もうどれだけの数の人間たちによって、じっさいに書きつけられたり口にされたことであろうか。数え上げること不可能であろう。それと同時に、まだ人間によって書きつけられたこともなく、口にされたこともない数も無数にあるであろうが、それもまた数え上げることが不可能であろう。永遠に。永遠と言う言葉が辞書通りの意味の永遠であるとしてだが。しかし、その個数は、確実に時代とともに減少していくことだろう。しかし、無数のものから無数のものを引いても無数になることがあるように、無数であるという状態自体は変わらないであろう。といったことを考えたのであるが、無数というのもまた、数ではなく、状態を表す概念なのであった。紫 式部の『源氏物語』の「竹河」のなかに、「無情も情である。」といった言葉があったのだが、無数という概念は、数の概念のうちに入るものではなかったのであった。非数というものの概念が、数の概念のうちに入るものではなかったように。非数という概念について、10月22日は考えていた。おもしろかった。非数を考えることによって、数自体についての考え方も変わった。このように、ぼくはぼくの意識的な領域の自我のなかで、さまざまな事物や事象の意味概念を捉え直していくことだろう。あとのことは、無意識領域の自我のする仕事だ。


二〇一五年十三月五日 「魂を合んだ本」

 思潮社海外詩文庫『ペソア詩集』誤植 116ページ下段13行目「魂を合んだ本を」→「魂を含んだ本を」


二〇一五年十三月六日 「ホープのメンソール」


 ホープのメンソール、めっちゃきつい。もうじき文学極道に投稿する『詩の日めくり』のことを考えてた。これはアナホリッシュ國文學編集長の牧野十寸穂さんのアイデアからできたものなのだが、ぼくの半分くらいの作品は、ジミーちゃんと、えいちゃんと、牧野十寸穂さんのおかげでつくれたのだと思った。ひととつながっていなければ、ひととかかわっていなければ、ぼくの作品のほとんどすべての作品はつくれなかった。全行引用詩でさえそうだ。孤独がすぐれた作品をつくるとリルケは書いていた。ぼくもそう思っていたけれど、どうやら、それは完全な錯誤であったようだ。ギャオで「あしたのパスタはアルデンテ」を見てる。ゲイだからって、どってことないっしょ? って感じの映画かな。人生は滑稽な芝居だ。ぼくのママも(実母も、継母も)ぼくがゲイだって言っても、信じなかった。父親はわかってくれていたようだが、母親たちは信じなかった。そんなものかもしれない。

 くちびるにしたら嫌がられるかもしれないと思って、首筋にキッスしたら、首の後ろにおしゃれなタトゥーが入ってた。一度しか会わなかったけれど、かわいらしい男の子だった。「そこに存在するから」山に登る。山などないのに。一度だけだからいいのだと、むかし、詩に書いた。

 完璧な余白を装って、言葉が詩に擬態する。℃の言葉も空白の意味と空白の音をもつ言葉だ。「めっちゃ気持ちいい。」魂から魂のあいだを完全な余白が移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」℃の言葉もだ。完璧な余白を装って。

 PCのCを℃にすること。階段席の一番後ろからトイレットに移動する。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。しゃがみかけたけど、しゃがませないで。首の後ろにキッスした。PCのCを℃にすること。

 本にお金を使いすぎたような気がしたので、セブイレでホープのメンソールを買った。きつい。一度しか会わなかったけど、首の後ろのタトゥーがおしゃれだった。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。ラブズ・マイ・ライフ。

 経験は一度だけ。一度だけだから経験だ。階段席の一番後ろからトイレットに。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動した。人生は滑稽な芝居だ。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」。

 人生は意味である。無意味の意味である。人生は無意味である。意味の無意味である。意味は人生でもある。意味の人生である。無意味は人生でもある。無意味の人生である。意味が無意味であり、無意味が意味なのである。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす意味と無意味。

 PICTURE の C を℃にすること。FACT の F を°F にすること。FUTURE の T を°Tにすること。KISS の I を°I にすること。SOUL の S を°S にすること。EVERYWHERE の W を°W にすること。BEATIFUL の B を °B にすること。WE の W を °W にすること。JOY の J を °J にすること。MESSAGE の M を °M にすること。SEX の X を °X にすること。LOVE の L を °L にすること。GOOD の G を °G にすること。GOD の G を °G にすること。


二〇一五年十三月七日 「大量のメモが見つかった。」

 晩ご飯は食べない予定だったが、夕ご飯は食べることにする。スーパーに餃子でも買いに行こう。部屋を少し片付けたら、大量のメモが見つかった。

非数について
(メモ)
 そもそものところ、数自体が、じっさいに存在するものではないのだ。紙に書かれた数字やワードに書き込まれた数字やエクセルに書き込まれた数字は、現実に存在する数を表現したものではないのだ。ぼくが指に挟んで紙に文字を書き込むペンのことをペンと呼べるもののようには。愛という言葉の意味は広くて深いが、愛という言葉が人間のこころに思い浮かばせる情景というものがある。愛が表象として実感されうるものであるからだ。そういう意味で、愛というものは存在している。しかし、数は表象として人間のこころに実感されうるものだろうか。プラスチックでできた数字をかたどったものがあるとしよう。そういうものがテーブルのうえに置かれたとする。絵のなかに描かれた数字でもいい。そういうものは、数そのものをかたどったものであろうか。数そのものではない。数が表している値を表現したものである。テーブルのうえに置かれた、プラスチック製の2という数字をかたどったオブジェは、2という数そのものをかたどったものではないのだ。数というものもまた、非数と同様に、概念として創出されたものであって、現実の存在する事物ではないのであった。

2015年10月27日のメモから
 ひとつの時間はあらゆる時間であり、ひとつの場所はあらゆる場所であり、ひとつの出来事はあらゆる出来事である。また、あらゆる時間がひとつの時間であり、あらゆる場所がひとつの場所であり、あらゆる出来事がひとつの出来事である。

2015年10月20日のメモから
 いったん、ぼくのなかに入ってきた事物や事象は、ぼくのなかから消え去ることはない。ぼくが踏み出した足を引っ込めても、その足跡が残るように、それらの事物や事象は必ず、ぼくのなかに痕跡を残す。ときには、焼印のようにしっかりとした跡を残すものもある。額に焼印されたSの文字が、それが押し付けられた瞬間から、それからの一生の生き方を決定することもあるのだ。slave。事物や事象の奴隷であることを示すアルファベットのさいしょの文字だ。ぼくの額のうえには、無数のSの文字が焼きつけられているのだった。

2015年10月24日のメモから
 ディキンスンやペソアという詩人の活動とその後の評価を知って、つぎのようなことを考えた。詩人にとって、無名であることは、とても大切なことなのではないか。名声がないということは、名声が傷つけられて、こころが傷むことがない。生きているときに尊敬されていないということは、傲慢になりがちな芸術家としての自我が慢心によって損なわれることがないということだ。生きているときに権威がないのも、じつに好都合だ。権威をもつと、やはり人間のこころには、驕りというものが生ずる可能性があるからだ。生きているときに、名声を得ることもなく、尊敬されることもなく、権威とも無関係であること。これは、詩人にとって、とても大切なことであると思われた。少なくとも、ぼくにとっては、とても大切なことだ。ぼくの場合は、きっと死ぬまで人様に名前が知られることなどないので大丈夫だ。

2015年7月16日のメモから
 朝、通勤の途中で、まえを歩いていたおじさんが、道に吸い込まれて片方だけの靴を残して消えた。年平均6人くらい、ぼくの通るこの道で人間が道に巣込まれるらしい。気を付けると言ったって、気の付けようがないことだけれど。

2015年5月28日のメモから
『図書館の掟。』のさいごのシーンのつづき。図書館長が死者である詩人の口から話を聞くところから、『13の過去(仮題)』をはじめてもいい。

2014年12月8日のメモから
詩のアイデア
本来、会話ではないところに「 」をつける。散文詩でやると効果的だろう。

2015年5月28日メモ
詩のアイデア
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!

2015年10月20日から27日までにしたと思うメモから
詩のアイデア
 さまざまな詩人が詩に用いたオノマトペを抽出、引用して、オノマトペだけの詩をつくる。タイトルは、トッド・ラングレンの曲名、 ONOMATOPEIA からとって、『 ONOMATOPEIA。』にするとよい。


二〇一五年十三月八日 「ユキ」


 晩ご飯を食べないつもりだったけど、まえに付き合ってた子といっしょにセブンイレブンで買い物して(「いつもおごってもらってるから、きょうは、ぼくがおごるよ」と言ってくれて)おにぎり一個と、トムヤンクンの即席麺と、肉ジャガコロッケ一個と、おやつを食べながら、二人でギャオの映画を見てた。本を買い過ぎて、金欠ぎみ~と、ぼくが言うと、タバコ2本を置いていってくれて、やさしい子だ。金欠ぎみと言うか、まあ、基本、ぼくは貧乏なので、貧乏人から見えることというのがあって、それはお金に余裕のあるひとには見えないものだと思う。健康を損なってはじめて見えるものがあるように。生涯、無名で、貧乏でって、まあ、詩人としては、理想的な状態である。寝るまえの読書は、『ペソアと歩くリスボン』じつは、きのうも、きょうも、レックバリの『人魚姫』のつづきを読んでいて、『ペソアと歩くリスボン』をちっとも読んでいなかったのである。きょうは少しは読もうかな。


二〇一五年十三月九日 「オノマトピア」


 きょうは、オノマトペだけの引用詩をつくろう。詩集とにらめっこだな。楽しそうだ。いや、きっと楽しい一日を過ごすことになるだろう。きょうも、きのうも、毎日、なんかあって、ジェットコースターのようだ。

オオ ポ ポ イ
オオ パ パイ
おお ポポイ ポポイ
オオ ポポイ
オオ!ポポイ!
(西脇順三郎『野原の夢』)

タンタン タンタン たんたん
オーポポーイ
オーポポーイ
(西脇順三郎『神々の黄昏』)

ゆらゆら
ジヤアジヤア
(北川冬彦『共同便所』)

もくもく
げらげら
(北川冬彦『街裏』)

くるりと
じーんと
ふらふらと
(北川冬彦『昼の月』)

ぽとりと
(北川冬彦『椿』)

ひらひらと
(北川冬彦『秋』)

ゆらり ゆらり ゆらり
ぴんと
ゆらり ゆらり ゆらり
(北川冬彦『呆けた港』)

ぶるると
かーんと
ピキピキ
(北川冬彦『鶏卵』)

がらんとした
(北川冬彦『絶望の歌』)

ははははははは
ははははは
(北川冬彦『腕』)

ぶくぶく
(北川冬彦『風景』)

ぶっつぶっつ
(北川冬彦『春』)

くるりくるりと
(北川冬彦『梢』)

コクリコクリと
(北川冬彦『陽ざし』)

ひよつくり
(北川冬彦『路地』)

ぐるぐる
ぐるぐる
(北川冬彦『スケートの歌』)

ダラリと
(北川冬彦『行列の顔』)

ゲヘラ ゲヘラと
(北川冬彦『大陸風景』)

ボーボーと
めりめりと
(北川冬彦『琵琶湖幻想』)

ばあ ばあ
(北川冬彦『水鏡』)

さらさらと
(北川冬彦『処刑』)

ぱったり
ぱっと
はたと
(北川冬彦『日没』)

 ちょっと休憩。イーオンに行って、フランスパンでも買って、早めのお昼ご飯にしようかな。オノマトペを取り出しただけで、なにかわかるとは思わなかったけれど、2つばかりのことがわかった。1つめは、個性的なオノマトペはむずかしいということ。2つめは、有名な詩人もオノマトペが凡庸なことが多い。

 フランスパンとコーンスープのもとを買ってきた。19世紀、20世紀のフランスの貧乏画家のようだ。まあ、ぼくはあくまでも、21世紀の日本の貧乏詩人だけど。

うつうつと
(安西冬衛『軍艦茉莉』)

グウ
(安西冬衛『青春の書』)

ポカポカ
(安西冬衛『春』)

とつぷりと
(安西冬衛『定六』)

ぼつてりと
(安西冬衛『旧正の旅』)

さらさらと
(安西冬衛『二月の美学』)

ちよこなんと
(安西冬衛『水の上』)

しんしんと
(安西冬衛『秋の封印』)

バリバリ
(北園克衛『スカンポ』)

ハタと
(春山行夫『一年』)

ぽつりと
(竹中 郁『牝鶏』)

ぴいぴいと
(竹中 郁『旅への誘ひ』)

 オノマトペの採集作業が退屈なものになってきたので、中断することにした。モダニストの詩だけから抽出したのだけれど、むかしの詩人はオノマトペを多用しなかったようだ。いまの詩人は、金子鉄夫を筆頭に積極的に多用する詩人もいるのだけれど。ぼくも使うほうかな。


二〇一五年十三月十日 「ぼくは言葉なんだ。とても幸せなことなんだ。」


 ぼくは言葉なんだけど、ほかの言葉といっしょに、ぎゅーぎゅー詰めにされることがある。たくさんの言葉の意味に拘束されて、ぼくの意味が狭くなる。まばらな場所にぽつんと置かれることもある。隣の言葉がなんて意味かわからないほど遠くに置かれることもある。ぼく自身の意味もぼくにわからないほど。でも、なんといっても、はじめての出会いって、いいものなんだよ。相手の意味も変わるし、ぼくの意味も変わるんだ。出合った瞬間に、なんでいままで、だれもぼくたちを出合わせてくれなかったんだろうなって思うこともよくある。しじゅう顔を合わせる連中とだけなんてぜんぜんおもしろくないよ。出合ったことのない言葉と出合って、ぼくの言葉の意味も深くなるっていうかな、広くなるっていうかな、鋭く、重くなるんだ。ぼく自身が知らなかったぼくの意味を、ぼくに教えてくれるんだ。それは、相手の言葉も同じだと思うよ。同じように感じてるんじゃないかな。ぼくという言葉と出合うまえと出合ったあとで、自分の意味がすっかり変わってるっていうのかな、まるで新しく生まれてきたように感じることだってあるんじゃないかな。ぼくがそう感じるから、そう言うんだけどさ。それはとても幸せなことさ。


二〇一五年十三月十一日 「自動カメラ」


ヒロくんが
自動カメラをセットして
ぼくの横にすわって
ニコ。
ぼくの横腹をもって
ぼくの身体を抱き寄せて
フラッシュがまぶしくって
終わったら、ヒロくんが顔を寄せてきた
ぼくは立ち上ろうとした
ヒロくんは人前でも平気でキッスするから

イノセント
なにもかもがイノセントだった

写真に写っているふたりよりも
賀茂川の向こう側の河川敷に
暮れかけた空の色のほうが
なんだか、かなしい。


二〇一五年十三月十二日 「あるスポンジタオルの悲哀」


わたしはいや。
もういや。
シワだらけのジジイの股間に
なんで、顔をつっこまなけりゃいけないの。
もういや。
ジジイは、わたしの身体を
つぎつぎ
自分の汚れた身体になすりつけていくのよ。
もういや。
死んでしまいたい。
はやく傷んで
ゴミ箱に捨てられたい。


二〇一五年十三月十三日 「洗濯機の夢。」


洗濯機も夢を見るんだろうか。
いっつも汚い
ヨゴレモノを口に突っこまれて
ガランガラン
まわしてヨゴレを落として
ペッと吐き出してやらなきゃならないなんて
損な人生送ってるわ。

人生ちゃうわ。
洗濯機生送ってるわ。
でも
洗濯機のわたしでも
夢は見るのよ。
それは
きれいな洗濯機を口に入れて
ガランガラン
洗ってやること。
いつか
この詩を書いてる詩人の父親が
飼っているプードルをかごに入れて
そのかごをわたしの口の縁にひっかけて
わたしの口のなかの洗濯水を回したことがあるわ。
犬を洗った洗濯機なんて
わたしが最初かしら。
ああ
わたしの夢は
新しい
きれいな洗濯機を
わたしの口に入れて
ガランガランすること。
まっ
それじゃ、
わたしのお口がつぶれてしまいますけどねっ!
フンッ


二〇一五年十三月十四日 「タレこみ上手。」


タレこみ上手。 転んでも、起きない。転んだら、起きない。コロンでも起きない。


二〇一五年十三月十五日 「ストローのなかの金魚。」


ストローのなかを行き来する金魚
小さいときに
ストローのなかを
2,3センチになるように
ジュースを行き来させて
口のなかのちょっとした量の空気を出し入れして
遊んだことがある。
とても小さな食用金魚が
透明なストローのなかを行き来する。


二〇一五年十三月十六日 「食用金魚。」


さまざまな食感の食用金魚がつくられている。
グミより食感が楽しいし、味が何よりもおいしい金魚。
金魚バーグに金魚シェイク
食用金魚の原材料は、不安や恐怖や怒りである。
ひとびとの不安や恐怖や怒りを金魚化させたのである。
金魚処理された不安や恐怖や怒りは
感情浄化作用のある金魚鉢のなかで金魚化する。
金魚化した感情をさまざまな大きさのものにし
さまざまな味のものにし、さまざまな食感のものにして
加工食品として、国営金魚フーズが日々大量に生産している。
国民はただ毎日、不安や恐怖や怒りを
配送されてきた金魚鉢に入れておいて
コンビニから送り返すだけでいいのだ。
すると、その不安や恐怖や怒りの質量に応じた枚数の
金魚券が送られてくるという仕組みである。
その金魚券によって、スーパーやコンビニやレストランなどで
さまざまな食用金魚を手に入れられるのだ。


二〇一五年十三月十七日 「金魚蜂。」


金魚と蜂のキメラである。
水中でも空中でも自由に浮遊することができる。
金魚に刺されないように
注意しましょうね。
転んでも、起きない。
掟たまるもんですか
金魚をすると咳がでませんか。
ぶりぶりっと金魚する。


二〇一五年十三月十八日 「金魚尾行。」


ひとびとが歩いていると
そのあとを、金魚がひゅるひゅると追いかける。


二〇一五年十三月十九日 「近所尾行。」


地下金魚。
金魚サービス。
浮遊する金魚。
金魚爆弾。
近所備考。
近所鼻孔。
近所尾行。
ひとが歩いていると
そのあとを、近所がぞろぞろとついてくるのね。
近所尾行。
ありえる、笑。


二〇一五年十三月二十日 「自由金魚。」


世界最強の顕微鏡が発明されて
金属結晶格子の合間を自由に動く電子の姿が公開された。
これまで、自由電子と思われていたものが
じつは金魚だったのである。
自由金魚は、金魚鉢たる金属結晶格子の合間を通り抜け
いわば、金属全体を金魚鉢とみなして
まるで金魚すくいの網を逃れるようにして
ひょいひょいと泳いでいたのである。
電子密度は、これからは金魚密度と呼ばれることにもなり
物理化学の教科書や参考書がよりカラフルなものになると予想されている。

ベンゼン環の上下にも、金魚がくるくる廻ってるのね。
単純なモデルだとね。
すべて金魚雲の金魚密度なんだけど。


二〇一五年十三月二十一日 「絵本 「トンでもない!」 到着しました。」


一乗寺商店街に
「トン吉」というトンカツ屋さんがあって
下鴨にいたころ
また北山にいたころに
一ヶ月に一、二度は行ってたんだけど
ほんとにおいしかった。
ただ、何年前からかなあ
少しトンカツの質が落ちたような気がする。
カツにジューシーさがない日が何度かつづいて
それで行かなくなったけれど
ときたま
一乗寺商店街の古本屋「荻書房」に行くときとか
おされな書店「啓文社」に行くときとかに
なつかしくって寄ることはあるけれど
やっぱり味は落ちてる。
でも、豚肉の細切れの入った味噌汁はおいしい。
山椒が少し入ってて、鼻にも栄養がいくような気がする。
トン吉のなかには、大将とその息子さん二人と女将さんが働いてらして
ふだんは大将と長男が働いてらして

その長男が、チョー・ガチムチで
柔道選手だったらしくって
そうね
007のゴールドフィンガー
に出てくる、あのシルクハットをビュンッって飛ばして
いろんなものを切ってく元プロレスラーの俳優に似ていて
その彼を見に行ってるって感じもあって
トンカツを食べるってだけじゃなくてね。
不純だわ、笑。
次男の男の子も
ぼくがよく行ってたころは
まだ高校生だったのかな
ころころと太って
ほんとにかわいかった。
その高校って
むかし、ぼくが非常勤で教えてたことがある高校で
すごい荒れた高校で
1年契約でしたが
1学期でやめさせていただきました、笑。
だって、授業中に椅子を振り上げて
ほんとにそれを振り下ろして喧嘩してたりしてたんだもん。
身の危険を感じてやめました。
生徒が悪いことしたら、土下座させたりするヘンな学校だったし
日の丸に頭を下げなくてはいけなかったので
アホらしくて
初日にやめようとも思った学校でしたが
つぎの数学の先生が見つかるまで
というのと、紹介してくださった先生の顔もあって
1学期だけ勤めましたが
あの学校にいたら
ぼくの頭、いまよりおかしくなってると思うわ。
生徒は、かわいかったけど。
偏差値の低い学校って
体格がよくて
無防備な子が多いのね。
夏前の授業では
ズボンをおろして
下敷きで下半身を仰ぎながら授業受けてたり。
あ、見えてるんだけれど。
って、思わず口にしてしまった、笑。
ぼくも20代だったから
ガマンのできないひとだったんだろうね。
いまだったら、どうかなあ。
つづけてるかなあ。


二〇一五年十三月二十二日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」


はばたきやないのよ、まばたきなのよ~!
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や
六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや
何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや
何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
円は演技し渦状する。
円は縁起し過剰する。
風のなかで回転し
水のなかで回転し
土のなかで回転する
もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる
なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる
冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる
真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。
笑。


二〇一五年十三月二十三日 「追想ね、バカ。」


六波羅小学校。
運動場の
そと
路地だった。
彼は
足が3分の1で
ハハ
小学校だった
のではなかった
中学校だった
そいつも不良だった
ぼくは不良じゃなかったと思うのだけれど
学校や
家では

親のいる前では
バカ
そいつのことが好きだったけど
好きだって言わなかった
そういえば
ぼくは
学校では
だれのことも好きだって言わなかった
中学のとき
塾で
女の子に
告白されたけど
ぼくは好きだって言わなかった
かわいい子だったけど
好きになるかもしれないって思ったけど
3分の1

みじけえ
でも
なんか
まるまるとして
でも
ぜんぶ筋肉でできてるみたいな
バカ
ぼくも
デブだったけど、わら
このとき考えたのは
なんだったんだろう。
遡行する光
ぼくの詩は
詩って言っていい? わら
きっと
箱のなかの
頭のなかに
閉じ込められた光
さかのぼる光
箱のなかで
反射し
屈折し
過去に向かって遡行する光
ぼくの見たものは
きっと
ぼくの見たものが
ぼくのなかを遡行する光だったんだ
ぼくのなかで
遡行し
走行し
反射し
屈折する光
考える光
苦しんだ光
笑った光
きみの手が触れた光だった
先輩が触れた
ぼくの手が見てる
ぼくの光
光が光を追いかける
名前も忘れてしまった
ぼくの光
光が回想する
光にも耳があってね
音が耳を思い出すたびに
ぼくは
そこにいて
六波羅小学校の
そばの
路地
きみのシルエットはすてきだった
大好きだった
大好きだったけど
好きだって言わなかった
きみは
遠いところに引っ越したぼくのところに自転車で来てくれて
遡行する光
反射し
屈折する光
光が思い出す




何度も
光は
遡行し
反射し
屈折し
思い出す。
あんにゃん
一度だけ
きみの腰に手を回した
自転車の後ろに乗って
昼休み
堀川高校
いま
すげえ進学校だけど
ぼくのいたときは
ふつうの高校で
抜け出して
四条大宮で
パチンコ
ありゃ
不良だったのかな、わら
バカ
意味なしに、バカ。
どうして光は思い出すんだろう
どうして光は忘れないのだろう
光はすべてを憶えてる
光はなにひとつ忘れない
なぜなら、光はけっして直進しないからである。


二〇一五年十三月二十四日 「どろどろになる夢を見た。」


焼死と
変死と
飢え死にとだったら
どれがいい?
って、たずねたら
魚人くんが
変死ですね。
って、

ぼくも。

言うと
アラちゃんが
勝手に
「ぼく安楽死」と名言。
じゃない
明言。
フンッ。
目に入れたら痛いわ。
そこまで考えてへんねんけど
どなると
フェイド・アウト
錯覚します
割れた爪なら
そのうち、もとにもどる
どろどろになる夢を見た
目にさわるひと
耳にさわるひと
鼻にさわるひと
手にさわるひと
足にさわるひと
目にかける
耳にかける
鼻にかける
手にかける
足にかける
満面のお手上げ状態
天空のごぼう抜き
乳は乱してるし
ちゃう

はみだしてるし
そんなに
はみだしてはるんですか
抜きどころじゃないですか?
そんな
いきなり乳首見せられても
なんで電話してきてくれへんの?
やることいっぱいあるもの。
あんまり暇やからって
あんたみたいに飛行機のなかでセックスしたりせえへんちゅうの!
ディッ
ディルド8本?
ちゃうわよ。
ビデオとディルドと同じ金額やのね。
あたし、ほんとに心配したんだから
ワシントン条約でとめられてるのよ
あんたが?
ビデオがよ
ビデオが?
ディルドもよ
ロスから帰るとき
あなたがいなくなってびっくりしたわ
16年前の話を持ち出さないで!
ビデオ7本とディルド1本で
合計16万円の罰金よ
空港の職員ったら
DCまでついてくんのよ
カードで現金引き出すからだけど
なによ
さいしょ、あんたディルド8本で
つかまったのかしらって思ったのよ
は?
8本の種類って
あんた
どんだけド淫乱なのかしらって、わら
大きさとか形とかさ、わら
それはまるで蜜蜂と花が愛し合うよう
それは
必要
かつ
美しいものであった
それは
ほかのものたちに
したたる黄金の輝きと
満たされていないものが
いっぱいになるという
充溢感をもたらせるもの
生き生きとしたライブなものにすることのできる
イマージュ
太字と
細字の
単位は不明の
イマージュ
読みにくいけれど、わら
ふんで


二〇一五年十三月二十五日 「神は一度しか死なない。悪魔は何度も死ぬ。」


創世記で
知恵の木の実を食べたことはわかるけど
その味がどうだったのか書いてなかったね
書いてなかったから
味がしなかったとは言えないけれど
どんな味がしたんやろうか
味覚はなかったのかな
知恵の木の実を味わったあとで
味覚を持ったのかな


二〇一五年十三月二十六日 「こんな詩があったら、いいな。」


内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形もない詩。

あるいは
内容があり
意味があり
音も声もあり
形がない詩。

あるいは
内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形がある詩。


二〇一五年十三月二十七日 「いっしょに痛い。」


ずっと、いっしょに痛い。
ポンポンと恩をあだで返すひと。
するすると穴があったら入るひと。
サイズが合わない。
靴は大きめに買っておくように言われた。
どもどものとき。
死んだ●と●●するのは恥ずかしい。
誤解を誤解すると
誤解じゃなくなる
なんてことはないね。
すぐに通報します。


二〇一五年十三月二十八日 「詩について。」


詩と散文の違いは
改行とか、改行していないとかだけではなくて
根本的には
詩は
鋭さなのだということを
考えています。
それを
狭さ
という言葉にしてもよいと思います。

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは
具体物
と言いました。

経験を背景としない詩は
まずしい。
しかし、経験だけを背景にした詩も
けっして豊かなわけではないのですね。

才能というものが
たくさん知っていることでもなければ
たくさん知っていることを書くことでもないと思うのですが
たくさん知っていて
そんなところはうっちゃっておいて書く
ということが大事なのかなあって思います。


二〇一五年十三月二十九日 「人間違い」


人間・違い
人・間違い
どっちかな。
後者やろうな。
近所の大国屋で、きのうの夜の10時過ぎに夜食を買いに行ったら
レジ係の女性が、ぼくに話しかけてきた。
「日曜もお仕事なんですね。」
ぼくは、このひと、勘違いしてるなと思ったから
あいまいに、うなずいた。
ぼくと似てるひとと間違えたのかな。
でも、ぼくに似てるひとなんて、いなさそうなのにね。
なぞやあ。
おもろいけど。
こんどは、あのリストカッターの男の子に話かけられたいよう。
あごひごの短髪の体格のいい、童顔の子やった。


二〇一五年十三月三十日 「100人のダリが曲がっている。」


のだ。
を。
連続
べつにこれが
ここ?
お惣菜 眉毛
詩を書く権利を買う。
詩を買う権利を書く。
そんなお茶にしても
また天国から来る
改訂版。
グリーンの
小鉢のなかの小人たち
自転車も
とまります。
ここ?
コロ
ぼくも
「あそこんちって
 いつも、お母さんが怒鳴ってるね。」
お土産ですか?
発砲しなさい。
なに?
アッポーしなさい。
なになに?
すごいですね。
なになになに?
神です。
行け!
日曜日には、まっすぐ
タトゥー・サラダ
夜には、まさかの
タトゥー・サラダ
ZZT。
ずずっと。
感情と情感は間違い
てんかんとかんてんは勘違い
ピーッ
トコロテン。
「おれ?
 トラックの運転してる。」
毎日もとめてる
公衆の口臭?
公衆は
「5分くらい?」
「おととい?」
ケビン・マルゲッタ。
半分だけのあそ
ピーッ
「八ヶ月、仕事なかったんや。
 そんときにできた借金があってな。
 いまも返してる。」
「じゃあ、はじめて会うたときは
 しんどいときやったんやね。」
たんたんと
だんだん
もうすぐ
だんだんと
たんたん
一面
どろどろになるまで
すり鉢で、こねる。
印象は、かわいい。
「風俗には、金、つこたなあ。
 でも、女には、よろこばれたで。
 おれのこんなぐらいでな(親指と人差し指で長さをあらわす=小さい)
 糖尿で、ぜんぜんかたくならへんから
 おれの方が口でしたるねん。
 あそ
 ピーッ
 めっちゃ、じょうずや言われる。」
イエイッ!
とりあえず、かわいい。
マジで?
梅肉がね。
発砲しなさい。
あそ
ピーッ
お土産ですか?
説明いりません。
どれぐらいのスピードで?
前にも
あそ
ピーッ
見えてくる。
「選びなさい。」
曲がろうとしている。
間違おうとしている。
見えてくる。
「選びなさい」
まさかの
トコロテン。
ピーッ
あそ
ピーッ
見えてくる。
「上から
ピーッ
見えてくる
 下から。」
のだ。
を。
連続
ピーッ
唇よりも先に
指先が
のだ。
を。
連続
ピーッ
行きます。
「選びなさい。」
「からから。」
「選びなさい」
「からから。」
たまに
そんなん入れたら
なにかもう
ん?
隠れる。
指の幅だけ
ピーッ
真っ先に
あそ
ピーッ
みんな
ネバネバしているね。
バネがね。
蟻がね。
雨が
モモンガ
掲載させていただきました。


二〇一五年十三月三十一日 「正しい書き順で書きましょう。」




という漢字が、むかし、へたやった。

書き順を間違ってて
マスミちゃんに正しい書き順を教えてもらって
正しい書き順で書いたらきれいに書けるようになった。
でも
電気の電は、あかんねんね。
雲も。
露も。
雪も。
雷も。
って話を
勤め先のお習字の先生に
たまたまランチタイムに
お席が、ぼくの近くに座ってらっしゃって
ご挨拶することになって
そのときに
そういう話をしたら

という字を横に広げて書いてみてくださいと言われて
いま
その通りにしたら
前よりずっときれいに書けるようになった。
ジェイムズ・メリルのルーズリーフ作業中に
何度か
雷とか
電気とか書いて
たしかになあって思った。
さすが
お習字の先生やなあ。
確実に、きれいになるように教えてくださった。
48才で、もしかしたら遅いのかもしれへんけど、笑。
まだまだ上達することがあるのかと思うと
たいへん面白い。
さっき
シンちゃんと電話していて
「いま何してたの?」
って訊かれて
詩の勉強って答えたら
「まだ、あきらめてないの?
 あきらめるのも、才能だよ。」
と言われてカチン。
「みんな、きみのことが好きだった。」
の前半を、そのうちに書肆山田さんからと思っている。
あれは、ほとんど認められなかったけれど
ぼくのなかでは、最高に霊的な作品やった。
とてもくやしい思いがいっぱい。
あまりにも洗練されすぎていたのだと自負している。
ほんとにくやしい。




自由詩 詩の日めくり 二〇一五年十三月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-04-03 02:48:43縦
notebook Home 戻る