気化の誘惑
ただのみきや


掌にそっと包んだ蜘蛛に咬まれて
上気した頬――金の産毛の草原へ
わたしは微睡みを傾けた
卒塔婆に書かれた詩のように
高く傾いだ空の下で

訪れては去って行く
たった一つの繰り返し
嵐の回路よ
砂埃の中の蝶のように
眼差しを奪い
わたしの中へ消えて行く






画集

遅延した春のぬかるんだ背中から
突き出した顎骨が伝導する
氷漬けにされた良心の糜爛した夜景から
拾い集めた糸屑でいっぱいの咳込む心臓
鳥のように麻酔もなく切開されたものよ
そぎ落とされた三百グラムの太陽を
朴訥な四つん這いの狂気が咥えて行くのに任せ
時計に撹拌された身体は煙へと変わる
ネズミのように壁紙を侵食して祭りを零しながら


瘠せた神々の祭壇に供えられた眼差しから
白い滓となって降り注ぐ記憶の粉末
眼孔の暗渠から這いあがる肺魚に刺さる月
夜に花輪を編む少女の刺青をまさぐるもの
それは取り調べられる男の頬に擬態した蝶
星々の液状化した愛欲により難破したもの
輝く鍵盤の津波により全ての防備を一掃され
黄金虫の硬度で調合された催涙弾で穿たれたもの


記号の呪文の蠱惑な踊りで発芽した幼い不信が
天を映した水たまりの静謐を正義の行進で濁す頃
猫背の占い師の張りぼての下着の中にまで
淡水人魚たちの憂鬱な自死のオノマトペが忍び込む
自重で崩壊する思想 投身と開花の非関連性
一切の不寛容がオニキスの入れ歯で梳いたもの
小気味よく噛み砕かれた現象と幻想のコラージュ
有袋類のミルクで肥える貴族的悲哀の羽ペンよ


有刺鉄線に覆われた母子像の前で舌を早贄にし
脚を開いた古代と性交せよ
風の蛇が脱皮するように
時を横滑りする凧が首に絡まって
案山子の死は生と同一の
蘇る緑の中で朽ちて行く微笑みではなかったか
美しく傾斜する血の中で目覚めた鳥よ
言葉を啄んでわたしをすっかり白紙にしろ






パン

パンが焼けるまで
空白が息づいていた
変形しながら漂う風船のように
取りとめもなく
だが決して交じり合うことはなく
パンが焼けると光が射した
皿の上の霊魂のように
誰かを煙に巻く瞬間の
無垢な殺意の煌めきを待つ
雲の顔を感じながら


                  《2021年3月21日》








自由詩 気化の誘惑 Copyright ただのみきや 2021-03-21 13:49:51
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