あなたはただ佇んでいる、それがわたしには心地好い
ホロウ・シカエルボク


靴の甲のあたりの高さにもなれない、小さく目立たない花が板塀の脚に沿って群生している、昨夜遅くの雨でそいつらはテレビコマーシャルのように粒の小さい光を跳ねている、板塀はところどころ破れていて、それはおそらくは破壊ではなく、それだけの年月が過ぎたためだと納得させるだけの材料がそろっていた、その、塀でなくなった部分からは、ガラス戸が開け放され、平行四辺形を作ろうとして失敗したかのように歪んだ、昭和中期あたりの平均的な住宅が見えた、その、ほんの一瞬の景色だけでも、まともな理由で人が居なくなったのではないだろうことがうかがい知れた、なにしろ、ある日突然人だけが居なくなったかのようになにもかも残されている、庭の倒れた物干し台にはすっかりボロボロになった洗濯物まである、街からほど遠くない住宅地にこんなものがある、しかもそれはこの家を始まりとする一区画すべてなのだ、きっちり長方形に区切られた住宅地の、一つの長方形の中がすべてこの有様なのだ、この目で見なければちょっと信じることは出来ないだろう、どういった人間が住んでいたのか、いつごろまで住んでいたのか、どういう理由で居なくなったのか、このあたりの年寄りをつかまえて尋ねてみても誰も知らないと言うし、なんでそんなこと聞きたいんだねとこちらを訝しがるやつまで現れる始末だ、だからそのことについて調べるのはやめた、時々この辺をぶらぶらと歩いては、ぼんやりと物思いに耽るだけだ、住宅の造りはどれもほとんど同じくらいだった、ほんのちょっと大きいか、小さいかくらいだ、適当に建てられて、適当に振り分けられたのだろうか、どれも同じ時期に建てられたものだということは想像がついた、ここに、なんらかの目的でそこそこの人数を住まわせることになって家が建てられた、そういう理由なのだろうか、どんな結論にも行き着けない推測は、無責任な分だけ楽しいとしたものだ、出来ることならどこかのお宅にお邪魔して残留物を拝見してみたかったけれど、よそからやってきていきなりこの区域のことを訪ねまくった俺のことを近所の人間は警戒しているに違いない、まあ、顔を合わせれば挨拶や世間話くらいのことはするけれど、これ以上怪しまれる行動は避けなければならない、まあ、だったらこんなところ歩かなければいいのだけれどー妙な道を選んでしまう人間ってたまに居るだろう?そういう人間なんだよな…ここを歩いているとよく、ここに生活があったころを想像してしまう、団欒の賑わい、道端で遊ぶ子供、買い物帰りの主婦、休日のサラリーマン、その他諸々の職業の方々、痕跡というのは不思議なもので、そういった光景を実際に目にしたよりも強く思うことが出来る、捨てられて錆びた三輪車を見ると、そのプラスチックの車輪が騒々しい音を立てて荒い路面を走っていた音がはっきりと聞こえてくる、平均的ノスタルジー、学校を懐かしく思うのに母校を訪ねる必要はない、そういうものだ、別に、そんな時代のほうがよかったとか、いまのほうが幸せかもなとか、そんなことを考えているわけじゃない、ただそういった光景を思い浮かべるのは妙に癖になるというだけの話だ、幸も不幸も、社会的水準に則って考えるならたいしたものにはならない、ゆっくりと終わった区画を歩き終えて、コンビニで買物をして部屋に帰った、なぜ自分が、来たこともないこんな辺鄙な街を選んだのか、おそらくはあの通りを見るためだったのだろう、そんな気がした、それが真理かどうかはどうだっていい、俺がそんな風に物事を考えるのが好きだというだけの話だ、貯金はまだだいぶん残っていた、慌てて仕事を探すことはない、なんでもいいとなったら仕事なんて必ずある、それぐらいのことは学べるくらいの人生は歩いてきた、時計を見るとまだ昼下がりだった、タブレットでネットを漁って数時間を過ごした、それから小説を読んだ、古い古い、堅苦しい小説だ、訳違いで五冊持っている、初版のものが一番いい、本を閉じると、珍しく眠くなった、これは貴重だと思いながら昼寝をした、起きるともう外が暗くなっていた、冷蔵庫にあるもので簡単な食事をとり、薬を飲んだ、テレビを見て数時間を過ごした、夜中になっても睡魔はやって来なかった、昼寝なんかしたせいだ、夜眠らなくなるのは嫌だった、一度そうなると戻すのに苦労するからだ、駄目なものは染まりやすく出来ている、でもどう転んでも眠れる気がしなかった、そうだ、と俺は思いついた、あそこを散歩してみよう、派手な音を立てなければ、どこかに忍び込むことだって出来るかもしれない、すぐに服を着替えて、外に出た、あたりの住宅はすべて眠りについているようだった、昼間でもそんなに活気は感じられないところだ、そんなに気を遣うことはないだろう、駐車場の真裏になっている家を選んで、開いたところから潜り込んだ、足元は意外にしっかりしていた、窓や玄関が全開になっていなければ、誰かが住んでいるのではないかと思えるくらいだ、本棚を眺めたり、調度品を眺めたりしながらすべての部屋を見て回った、他人の生活を覗き見るみたいで楽しかったが、特に何か、自分がこの場所について抱いている疑問を晴らしてくれそうなものは見当たらなかった、そんな風に数軒を覗いた、結果は同じことだった、でも俺は満足していた、余計にこの通りが好きになった、理由なんて説明出来ない、ただこの通りほど、俺が散歩するのに適した通りは無いように思えた、家に帰ってぐっすりと眠った、次の日も同じような日だった、そんな日が三日ほど続いた、交通事故に遭って三ヶ月歩けなかった、ようやく動けるようになって外に出ると、あの通りはすっかり更地になってしまっていた、俺は立ち尽くした、どうしてだろう、そんなこと考えたこともなかった、あれはずっとここにあるんだと思っていた、すぐに家に帰って椅子に座り長いことぼんやりとしていた、なにも食べる気にならなかったし、喉も渇かなかった、気が付くともうすぐ夜になろうとしていた、今夜はきっと眠れないだろう、そう思いながら食いたくもない晩飯の為に少し出かけることにした。



自由詩 あなたはただ佇んでいる、それがわたしには心地好い Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-02-10 00:02:59
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