刈り込みと冬
道草次郎

今日、ユキヤナギの枝の剪定をした。毎年、毎年、よくもこんなにも次から次へと、出てくるものだと半ばあきれながら手を動かした。知らぬ間に至る所絡まっていた蔓植物の頑丈さは凄まじく、綱引きをするみたいに息を弾ませやっとの事でユキヤナギ本来の容姿をそこに見出すことができた。前年切り残した枯れ枝は、手折るとポキポキと簡単に折れてしまう。今年新しく芽吹いた部分もこの時期の剪定では案外思いきって切ってしまうのがいい。ここ数年の経験則から、今年は、刈り込みをキツくしようと決めていた。

群れた椋鳥がしきりに鳴くのがうるさくて、一度、やつらがとまっている枇杷の木の幹を竹箒で叩いたが、効果は一時的なもので、少しするとまた囃し始めた。仕方ないので、放っておく。放っておくと、やつらもそれが分かったようで、いよいよ騒がしくなる。どうしたことか、柿の実も既に無いし、やつらは枇杷の木の上でいったい何をしてるのだろうか。自分には計り知れない何かが、もしかしたら冬が?やつらを急き立てているのかも。

ところで、本当は、両腕を使う長刃の刈込みバサミはなるべく使いたくはない。疲れるし、心臓の具合だってまだあまり良くはないからだ。でも、やっぱりそれがけっきょく一番小回りがきくし、扱いやすいので気付くといつも頼ってしまうのだ。新しい道具を用途に分けて上手く使いこなすことができた事はたぶん一度もない。いつも、使い慣れたものを使ってしまい、それが破損したり老朽化すると慌てて代替品を探すのだ。

今年最後の焚き付け。
落ち葉は朝の九時ともなればその湿り気を幾らかは飛ばすので、熊手で掻き集めて一輪者で運び火にどんどん焼べていく。ついでに、剪定して間もない枝がユキヤナギの周辺にあるので、それもかき集め引きずっていき焔の真上で熊手を停める。先っぽに引っ掛かったのを左手でもぎ取りパラパラと落としてやる。すると、燃えやすい枯れ枝やチリチリに乾いた落ち葉はじつに勢いよく燃える。次なる焔の言葉を捲し立てるかのように。たまに火力が強くなり過ぎ袖口を燃やしそうになるが、まず燃えた試しがないので未だに高を括っている。燃えたら可燃性のウインドブレーカーを着ているので、一瞬で火達磨になるかも知れない。そうしたら、おわりだ。

くたびれたら、りんごを入れる黄色いコンテナを横にしてそこに腰掛けて火を眺める。しかし、これは悠々たる焚き火なんかではない。煙と寒さと乾燥のせいでとめどなく流れる洟水をぬぐう以外、別段なんの感慨もわかないのである。むしろそれは、倦怠感すらともなう作業である。

しかし、考えてみれば不思議な話だ。火は酸素がないと燃えない。で、人間も酸素がないと続かない。だから、あっちで火が燃えてこっちで自分が息をしていれば、あっちはあっちの酸素をつかって、こっちはこっちの酸素にあずかっている。しかも、それらの間にある懸隔は距離にしてほんの2メートルかそこらという事実。原子の世界では酸素がどこで何と結合したとは離散したとかそういうのはたんたんと行われる。よく考えれば、なんだかえらい話である。つくづくひどい話でもある。だって、生命が獲得した感覚器官は必要に応じてその機能を一時的にオンオフすることができるのは知られているが、しかし、そういう生命の工夫をまったく原子のやつらは分かっているのだろうか。たまに、頭にくるのである。これは、生命体の自然への言い掛かりである。熱いってのがどれほどのものか、原子というのはもっと知るべきだ。そうじゃなければ、なにもかもヒドく割に合わないことばかりじゃないか、そんな風なことを考え火を眺めていた。

と、そんなことを考えていたらほとんど燃やすべきものは燃え切っていた。あとに残ったのは、炭と生焼けの生木何本か。水をぶちまけて、びしょびしょに濡れた軍手を絞り、し忘れていたネギを凍結に備えて植えなおす作業をする。カチカチに固まった土からネギを引っこ抜く時、うまくやらないとずるむけとなり栄養価の高い部位の大半をそこなうから、今のうちにその手間を省いておくのだ。

今日は永年使っていたホースが老朽化でついに断ち切れているのを発見してしまった。それから、アルミ製の巨大なハシゴにいつか誤って拵えてしまったであろう刈払機の刃による切削面を見つけた。見つけなければ面倒なことが増えなくて済んだのにと、すこしうなだれる。近々、買い求めねばならないだろう。我ながら無精者の考えそうなことである。

長靴のドロをはらい、箕や一輪車や刈り込みバサミやらを回収してきて片付けると、犬走りに腰掛け遠くの山なみを見渡す。雪だ。赤茶けた杉だかの木々がつらなる山の中腹まで、雪の手が迫ってきている。

ふと地面に目をやるとナリのデカい蟻が1匹、何なのかはよく分からないが自分の3倍もある物体を抱えて這っていた。ほんの出来心で、サンダルに履き替えたばかりの右足をその上に持っていく。ピタリと蟻の脚が停まり、時もとまる。足で作った影を少しずつ少しずつ動かしていくと、やがて蟻に日が差す。蟻は動き出す。何事も無かったかのように。

地軸の傾きによりもたらされる冬が、命あるものすべてに及ぶかのように、見えない所で、サラサラと砂のように零れ落ちるのが聴こえる気がした。


散文(批評随筆小説等) 刈り込みと冬 Copyright 道草次郎 2020-12-13 17:48:18
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