メモ11.24
道草次郎

メモ

毎日が出発である。そのことが単純に宝石である。そのことの裏にある暗い河の流れすら光っている。誰かがいる。ぼくは近付く。その人は死んでしまう。僕が近づいたからではなく、その人はその人自身により死んでしまう。そしてぼくが死ぬとしたら、ぼく自身によってである。隔絶というものがある。それは、いつもある。それに意味を付与するのは人間だが、隔絶はただの夕闇にすぎない。それは、いつの間にか立ち込めているものだ。付与された意味が知らず知らずのうちに減衰していく様には、不思議なうつくしさがある。


暗いものはない。考えれば、なにもかもがあかるい。病室は白くあかるい。空もあかるい。LEDライトもあかるい。神もあかるい。暗さは概念でもない。暗さは光の角度の脱臼だ。暗さは、それを願う者をして彼を覆うもの。ティーカップを置き、そこにうまれる影を見て暗いとは誰もいわない。その時、影は芳醇で控えめな伴侶でしかなくなる。


間違いをただして欲しい。それだけである。自分に、それをして欲しいのだ。そう、自分に間違いを。その者がみずから気付くまで、心ある人は待つだろう。その心ある人は伏し目がちに松林を歩き、糸杉のような美しい幾つかの詩篇すら手帖にしたためるかも知れない。けれども心ある人は、何もいわない。何も言わないでいるのが、批判の厳しい棘であることをよく知っているから。


心が安定し、よく眠れ、たくさん勉強もでき将来にメドがたち、さらには周囲の大切な人たちに何かの希望を与えられそうな時こそ、それらの全部は破壊されるべき季節である。それは、じっさいに実行されるのがいい。人に軸を置くことは人への侮辱である。侮辱を好むことの甘美は注意深く排除せねばならない。そして一つの平衡状態の到来は、一つの季節、例えば夏の太陽がもたらす焦熱に過ぎない。一つの状態が四季であるような状態は、人外の事である。自然由来の摂理を肯った上で、自分自身、人、その他諸々の何もかもを貫くように赦さなければ自然への復讐は果たされ得ない。


良いものを書こうなどと考えてはならない。自分のためにだけ、書くのがいい。自分を救うため、あるいは自分を本当に楽しませるため、それだけのために書くのでなければ、それは書いていないに等しい。書きたいならば、もっともっと冷徹かつ傲慢に狡賢くならねば嘘だ。書くことは頂上のない登山だ。生きて帰れるなどと思ってはならない。しかもそれは登山であり下山でもある。到らない頂上の山を下る時でさえ、吹雪は容赦がない。


自分にとっての絶望と一番近接の言葉と添い寝をし、絶望の寝息に耳を澄ますことしか自分にはできない。他者の絶望が他者により絶望されること、そのことの隔絶と添い寝をすることはできない。隔絶の寝息は常に想像により擬態されるから、想像の価値をどこまで控えめに見積もるべきかその範疇を見定めることこそ、倫理の扱うべき主要な事柄になる。そして言葉に関しては、語を発するとは即ちその範疇の無自覚な露見に過ぎない。しかし自覚的になると、語は消滅する。ゆえに詩は倫理から、永遠に遠い。倫理とは原理的に無縁なものとしてしか、有り得ない。詩に於いては、うつくしいものは唯うつくしいからという無底の根拠により讃えられよう。また、その絶大なる力は隔絶すらも包摂する。隔絶はその一瞬に昇天の夢をみるならば、それこそが恍惚である。詩とはそういったものとも言えるかも知れない。


散文(批評随筆小説等) メモ11.24 Copyright 道草次郎 2020-11-24 22:27:32
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