あかるくなりたい
道草次郎

通り掛かったら何となく図書館に寄ってしまった。昼過ぎから曇りだしていた。空は近場の山に近付くにつれどんどんオソロシイ藍色に黒ずむのがわかった。薄桃色のコスモスが幼稚園の庭で生温い風に泳いでいた。ちらちらと舞う蜆蝶も心做しか色が抜けて見えた。夏も疲れている。

田舎の小さな図書館。棚から棚へ。裏口の磨りガラスにはいつもエノコログサが顔を押し付けている。あのエノコログサが引き抜かれた夏を知らない。隣接する剣道場から少年の気合い声が聴こえる。大きい街の図書館のあの気圧される様な書架の佇まいは此処には無い。比較的雑多にとり混ぜられた分類項目達。哲学本と心理学本が窮屈そうにその肩を接し、スピリチュアル系の本も遠慮なく傍らに居座る。人差し指を小口にかけ、ためらい、戻す。ココニイテハイケナイ。

腹痛を催しひどい下痢をする。汗だくとなり、考えが宙を漂う。投げ遣りだった時、肉体苦は寧ろ張り詰めた精神の一時の避難所だった。汗みどろの中に空白を求められるが有難く感じられた。そういう考えが倫理に悖ろうとも、ともかく、それが事実だった。しかし、今は少なからず状況は違う方向へとずれ込んだ。すると、忽ち下痢の苦しみが形而下のものとなる。釈迦の入滅。畏れ多くもその最期を想う。凄まじい腹痛に苛まれた釈迦はアーナンダに語る。悪い茸を供した者が後に責めを負うこと無きよう、それから、めいめいが怠りなくつとめるように、と。「ただしくおもい、ただしく心をとどめていた」抜き差しならない状況下において心をとどめること。そんな考えが汗で濡れたトイレットペーパーにこびり付き、指をいよいよ苛んだ。


明るいというのは
あきらめること
若しくは
諦めるとは
あきらかならしめること
闇を照らすのではなく
闇に目を慣らすこと
輪郭を把握し
次のステップへかんがえを押し遣ること
とまってはならない
とまってはならない
風に
かぜに身を
風のなかに
身を
おく
尿意にしたがい
世界の血圧を下げること
ここではなく
あそこへ
どこかへ
いな
どこかではなく
ここへ
ここの
生理と渾沌へ
墜落すること
その所望するところへ


なんで世界的になれないんだろう。浴びるように生きてきて、覚えた言葉のいくたりかで貧しく象ろうとしているのに。世界は、果てしなく黙ったままだ。ひね潰された唄の残骸のような音素だけが散らばって居る。今日という日はいつだって巨人の腕に擔がれ破滅的に揺すぶられる。ユッサユッサ。ソヨ風や鰯雲なんかが平面図にくゆってばかしいる。問いはその都度、夙、蒸発してしまう。上気した信仰心が、飛びし石のように、テン、テン、テンとあって、所在無げなブラフマンがぴょんぴょん跳ね廻る宇宙的昼下がり。


運転中、
(!)
世界に放っておかれる幸い、自由、それはとてつもない空虚のような自由。


明るい人間になりたい。こんなふうな文章もいやだ。夕飯の支度をした。切れ味の悪い包丁でキャベツとピーマンを切った。ピーマンの種は指でこそげ取り、キャベツの芯も短冊にした。回鍋肉の炒め油がTシャツを汚したけれど、サザエさんが始まる前には仕上がった。母も、苛立っている。みんな、たぶん夕飯の支度に疲れている。ぼく一人が足掻いているのではない。料理をして、掃除をして、洗濯をしよう。当たり前のことを、しよう。当たり前のことを、喜んで、しよう。


要するにぼくの心はいつも取り散らかっていて、その取り散らかっている心を詩の世界に放りたいし誰かなりにそれを預けてしまいたい、



という事。



もちろん、今自分が抱えている問題をどうにかしたいにはしたいけれど、じつはそうでない部分も同時に持ち合わせている。変化を恐れているとか言うのじゃなくて、それは、混沌とした自分というものを全的に受け入れてもらいたいという衝動の表れだ。


あまりにも、という言い方をぼくは好むようだ。
これは、性格をよくあらわしている。
自分を苛むのもそれを万能と見なすのも、おんなじだ。ほとんどの事が眼前で炙り出されるのを待つのみだ。


所詮、そんなものだ。
、苦しい。






散文(批評随筆小説等) あかるくなりたい Copyright 道草次郎 2020-08-30 20:10:22
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