夜に捧げる何か
道草次郎

その歳若い上司は、ぼくどころか妻よりもずっと若く、なんとその若さで現場のチーフを仰せつかっているとの事だった。
妻はつねづね、その上司が、制服の上から胸や腹のあたりを無造作にガリガリと掻きむしるのが堪らなくイヤだと言っていた。

妻がはじめに電話に出た時、すでに事態はいくらか滞っていた。

要するに妻はこの休業を終えて職場に復帰することをためらっており、反対に上司の方は復帰を望んでいるという図式だ。
しかし、上司が復帰を望むのは、それは辞められたらどうしても困るからというよりもヘルニアは治療可能であり、それを抱えながら職務に返り咲く人は五万といる。
だから、妻が復帰に消極的であるのは仕事に対する意識の低さの表れであり、もっといえば甘えのようなものに過ぎないとそういうことであった。

妻はその年下の上司による粘着質ともいえる説諭にほとほと嫌気がさしたのか、ちょうどその時夕飯の支度に取り掛かろうとしていたぼくに無理やり電話を押し付けてしまった。
もう、勘弁して!後はお願い、という風に。

ぼくが電話に出ると、相手はいきなり男の声が耳に飛び込んできたショックで、二、三秒のあいだ沈黙していた。
そして、いくらか裏返った声でいつもお世話になっております、と言った。
もちろん、これにはぼくの方からも丁重な挨拶を返したのだが、妻が先程から30分ほど我慢して聞いてきた話をもう一度はじめから聞くハメになったのである。

妻はすぐ目の前で、声を出さずに身振り手振りをまじえて何事かを伝えようとしていたが、残念ながらその大半をぼくは理解することはできなかった。
要するにヤツをやり込めてくれと懇願していたわけだが、ぼくは自分でも情けない事にこの歳若い男の一方的ともいえる粘っこい主張に辛抱強くお付き合いしてしまった。
それどころか相手がまあそれなりに筋の通ったような事を言った時には、自分でも馬鹿だと思うが、「なるほど」とか「たしかにそうですね」とか、妙に相手の立場に立った物言いをしてしまうのだった。

みるみるうちに妻は不機嫌になり、ぼくは、なんとかこの話は夫婦でよく話し合って決める事にしますので後日また連絡させます、と言って話を終わらせようした。
でもけっきょくはその前に妻に電話を奪われしまった。
それからは、上司との話し合いに大した進展もなかったようだ。
とりあえずは、さしあたって必要な事務手続きを行う為に一度事務所に来てもらいたい、というような現実的な話でその電話は終わったようだ。

寝室では相変わらず妻が静かな寝息を立てながら夢の中を泳いでいた。

ぼくは深呼吸をした。そして、もう一度深く息を吸い切ったそのままの状態で、ピタッと呼吸そのものの活動を停止させてしまった。
このまま、どこまでもいつまでも息を止めていてやるんだ、ぼくはそう思った。

何もかも、いやそれは嘘になるから否定するが、ほとんど何もかもにぼくは嫌気がさしていたのだ。
それはもう、自分でも信じられないぐらいに。

一分と経たないうちに苦しさに耐え切れずすごい勢いで息を吐き出すと、その後に襲ってくる荒々しい胸郭の上下に抵抗することなく身を任せている自分がいた。
それから、進みゆく時間はゆっくりとなった。
洗面台の下の小暗がりにしゃがみ込んだぼくは小刻みに震えていた。
ひとしきり泣きじゃくったのだ。
滴り落ちる涙が妻が大事にしているピンク色のマットを濡らしたが、ここでは何もかもよく見えないし、それに別にそんなことはもうどうでも良かった。
嗚咽を愛おしく感じるほどまでにぼくの胸はぼろぼろとなり、しょっぱい涙の味と止めどなく流れる鼻水だけが自分を罰してくれるような気がした。さらには即席の恩寵すらも与えてくれるような気もした。
呼吸が落ち着いてくるにつれ、ぼくは少しずつ冷静さを取り戻していった。
今の事で妻が起きてしまわなかったか、そればかりが気掛かりでどうしようもない自分が再びそこにはいた。

後日、知ったところによると、あの歳若い上司はいきなり何の前触れもなくぼくが電話口に出現したことにかなりの憤りを感じたらしい。
妻にむかって冗談めかしてではあるが、絶対に許さない、とも言ったそうである。
妻はそれをぼくにいちいち報告した。
ひとしきり不満を口にしてから、普段は滅多に見せないキツイ口調で、「あいつふざけんなよマジで」と空中に視線をさまよわせながらつぶやいたことを覚えている。

キッチンに戻ってきて椅子に腰掛けたぼくは、暗闇のなかでふたたび目をつむった。
そして、目をあけると一つの小さな決心をした。






散文(批評随筆小説等) 夜に捧げる何か Copyright 道草次郎 2020-07-27 20:37:47
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