無題
おぼろん

(透明ではない)
(灰色の一匹の魚)


透明ではない、薄く曇った一つのガラス球のなかに、
一匹の魚が泳いでいる。それは灰色。

「もう泳ぐのに疲れてしまった」と、魚は言う。
わたしたちはそれを聞き届ける。

魚の声を聞き届けるのは、神ではない。人だ。
魚は言葉を発することは出来ないが、
それはたしかに耳に響き、
鼓膜を揺らす。


細い蝋燭の火のように、
いつかはやがて今日になって、
昨日忘れていたことを思い出させる。
それは遠い過去の記憶。

薄く曇ったガラス球のなかで、
一匹の灰色の魚は泳ぐ。
それはねずみ色、曇り日の空の色。

懐かしさと、不安と。


ガラス球は広がりながら、離れていく。
わたしたちもそれに連れて、
魚たちの声が遠のいていく。
魚の声を聞き届けるのは、天ではない。人だ。

それはたしかに心に届き、
想いを揺らす。

(透明ではない)
(一匹の魚)


何を求めてさまよっているのか、
誰にも分からない。
きっと彼にも分からないのだろう。
それは、追うべきではない秘密かもしれない。

魚は言葉を発することができない。
それは永劫の孤独のようでもあり、
実はそうではないのかもしれない。

想いは、伝わるだろうか。


それは誰から誰への想いで、
わたしたちは何を見ていて、
そこから何を感じ取っているのか、
確かめようにも確かめるすべがない。

もしも明日、
洗濯物を乾かすように空が晴れたならば、
魚の心は晴れるだろうか?
室内にある一つの球体のなかでも。

それぞれが宇宙であり、生命の器である。
わたしたちは、魚の声を聞き届けることはできるが、
魚に想いを届けることはできない。
一方通行の、遮断されたコレスポンデンス。


自由詩 無題 Copyright おぼろん 2020-06-02 08:56:56
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