挨拶、あるいは悪文修行時代
墨晶

 
 
 根拠の雉鳩色は空の濁りである。蓋し、悲しみはわたしの本日なのだ。
 屋台が引き寄せる天命の片隅で、ホットドッグは寂寞の内的公園であると同時に、云うまでもないが、珈琲のアナロジーは肉片を胃に流し込むための気化する紙コップなのだ。その時、容赦のない無人はすべての誰かである。
 構成されるあらゆる長椅子が木材と金属であるようでいて、そうではないなら、どうでも良い暗喩として、束の間のねむりは僅かに曲がった鉄砲草の均衡と云って良い。従って、わたしのあらゆる毛布がインクの馨りであるように唱えよう・・・待った、やはりそれは駄目だ(申し訳ないが、それに関しては後述するかもしれない)。今の処は只静観してくれ。何だったら達観してくれ。
 概念の四季を統制している毛糸帽と古い黒いコートは毛玉と焦げと穴あきの集成である故に、無縁であるそんなものはアルミホイルの衣服なのだ。
 さあ、ベドウィンと云うわたしは名前だ。伴侶の紙製の手提げ袋は百も存在する。そうとなれば、最早独り還ろう、「故郷=建築物」はいつだって紙とブルーシートなのだから。「感じ」が過充填された胸郭、相似の現在と近過去以上に不誠実な風も紛れもなく独り。畢竟、発言に於いて、すべてのわたしが何かである。駱駝達はそして、家族である他でもない。
 
 
 


自由詩 挨拶、あるいは悪文修行時代 Copyright 墨晶 2020-05-17 18:07:46
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