小さな庭
田中修子

あのひとはやみに閉ざされていたころの
北極星
もう去った
気配だけが

ことばにつながる みち が幾らでもあったことを

まだわたしはひとではない
ひとであったことはいちどもない
これからもない

夕暮れ 空を苦しげなように覆っている雲から
ひかりが静かにおちていった そうしてあたりを薄紫に染めて
とどろく
五月の神様のひっかき傷はあかるく落ちてくる
そのいくつもの線が
なにかを指し示しているのだけど ただ 泣いているようで
やがて降りしきる
雨粒のひとつひとつが
生きること死ぬことそのあいまのすべてのことを
ささやいている
そのすべてを耳たぶに飾りたくて 目に焼き付けたくって
そっと 家を抜け出すのです

三年前から使っている黄色い傘の花柄が雨に濡れてあざやかに咲いていく
歩きなれている道のはずなのに
闇に輝いている紫陽花に見え隠れする路地に
足を踏み入れた

ちいさな庭があった みどりの五月の庭が
あるじの気配はする 姿はない
傘を閉じる この庭に降る雨はあたたかく
躑躅はあかるく燃えて芯のさむさをとろかすのです
ひとではないわたしの 追われた傷を
庭で休む モッコウバラが垂れているね クリーム色の薄い花びら
すこしミントが茂りすぎだわ と思うと熱いお湯の入ったヤカンがあって
艶やかな青のマグがあって 湯気の立つミント・ティーを入れましょう
痛みをしずめ 安らぎに ぷくぷく 溺れてゆく
どれくらい経ったろう
安寧のお返しに 忘れられた庭の手入れをするうちに

庭になっていた

わたしが居たあかしに
黄色い傘を 庭の出口にそっとひらいて
おきましたよ

夫と子が、支えあうように手をつなぎ
うつくしい花束を供えて
うしろすがたは これから生きていく人の 背なか


自由詩 小さな庭 Copyright 田中修子 2020-05-10 01:02:18
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