風のオマージュ その8
みつべえ

☆石原吉郎「若い人よ」の場合




私はちがうのだ若い人よ
私はちがうのだ
私の断念において
私はちがうのだ断念への
私の自由において
堤防はそのままに
堤防であり
空はそのままに空であることが
私の断念のすべてだが
しかしちがうのだ
通過することが生きることの
はげしい保証である爪先は
私にはとどかないのだ
若い人よ




 奇妙な言い方だが、私は生身の石原吉郎を一度だけ間近で見たことがある。1974年か75年当時(もう記憶はあやふやだ)、つまり私が絶世の美少年(笑)だったころの東京の、たしか場所は八丁堀の勤労福祉会館だったと思う(思うだけで自信はない)。
 そこの小ホールで夕方、現代詩の講演会が開かれる予定で、そのころ私淑していた山本太郎も来るという情報を得たので行ってみる気になった(はずだ)。そういえば小海永二の姿もそこで見た記憶がある。そして僧侶のような雰囲気を漂わせた石原吉郎。ほかにも幾人か「現代詩人」たちが来ていたはずなのに私が思いだせるのは、この三人だけ(石垣りんの朴訥な朗読を聴いたような気もするが別の場所でのことだったかも)。なんて不甲斐ない私の記憶力。石原吉郎が何を講義したのかさえ、もはや当然のように忘却している。
 が、ただひとつ、私の記憶の感光紙にあやうくも焼き付いていることがある。


 聴衆はほとんど学生や若い社会人だった。講義が終わった直後、なかの一人が突然立ち上って石原吉郎に質問をぶつけた。その言葉はもちろん正確には覚えていないが多分このようなことを言ったのだ。
「私は昭和●●年生まれですが、私たちの世代は詩のテーマになる共通の体験がないと思うのです。たとえば戦争や、それによる石原さんの場合のようなシベリア体験、あるいは六〇年安保闘争のように時代と真向かう仕方で詩を書くのはもう不可能だと思うのです。いったい私たちはこれから何を書けばいいのでしょうか」
 この発言を気にとめたのは、私も偶然昭和●●年生まれであり、なすべきことのない時代の予感とみずからの未熟さに日々苛まれていたからである。いま思うと児戯にもひとしい、しかし、かけがえのない一時期であった。それでも、さすがに何を書いたらいいかは他人に訊くべきことではないと思うくらいの分別はあった。現在を過ぎてゆくことでしか固有の言葉を持ちえない境遇と年齢のなかにいるのだからと、当時の私はしゃらくさくも考えていた。歳をとれば、そのうち嫌でも何か書けるようになると、さかしらに思っていた。
 だがその反面、この若い発言者の質問は私の質問でもあった。
 答は。石原吉郎は応えて、こう言った(はずだと私が思いこんでいる)
「私は自分のことしか語れない」
 たしかに彼はこう言った(はずだ)。その言葉はかたくなな調子で私の耳の奥底に響いた(そんな気がする)。

「私は自分のことしか語れない」

 そうして、これが私が石原吉郎の肉声として覚えている言葉のいっさいである。いま長年月をへて「石原吉郎全詩集(花神社)」のなかに「若い人よ」を見いだすとき、私の感慨はふかく切ない。「通過することが生きることの/はげしい保証」であった私の歳月! しかしその「爪先は」「私にはとどかないのだ」と詩人は書いていたのだ。私たち「若い人」へのメッセージとして。
 この作品は1975年に「磁場」に発表された。




●石原吉郎(1915~1977)

静岡県生まれ。敗戦時ソビエト軍に拘留されシベリアでの重労働25年の刑を宣告される。昭和28年スターリン死去にともなう特赦による帰国後、38歳から詩を書きはじめた。処女詩集「サンチョ・パンサの帰郷」の上梓は49歳のときであった。

 


散文(批評随筆小説等) 風のオマージュ その8 Copyright みつべえ 2003-11-22 17:06:24
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