辟易から疲弊へ
ナンモナイデス


たぶん自分は「ある」物ではなくて、「いる」者にすぎない。
いま・現れている世界は、ただ・「そう」慣れ親しんでいると、
自分の知に基づいた、ただ「そうだ」と思い込んでいるだけの世界にすぎない。

自分はなにが知りたいのであろうか…
プラトン哲学でいう【真理】であるとか、イデアなのだろうか…
これという故郷もない自分にとって、
もうすでに壊されて久しい「長屋」のことだとでもいうのか…

この世は作りものではない。だから創造神はいらない。
この世がどうやって現れているかについては、人間はまだ知らない。

たとえば戦争で敵の兵士を殺せば善である。
大河ドラマの存在事由も公共放送局にとっての善にすぎない。
歴史が武勇伝のたらいまわしであっては面白くない。

善悪問題は哲学では解決することはできない。
殺気立つトイレットペーパー問題のように…

1970から2020まで人類の糞便処理は情報処理に比べ停滞している。

本質は存在するものであろうか…
「ト・ティ・エーン・エイナイ」などという訳語にとまどうことなく。

本質の本質を問うことはただ無限地獄に落っこちるだけである。

古代人の立ち話を読んでみたところで、自分の魂が震えるわけでもない。
「エルの物語」とか「パイドン」は不死についての話である。
不死であるのはもっぱら魂であって、体ではない。

古代人であっても現代人でも、魂自体をしっている者はいない。

報償金をもらえばマラソンランナーだって耳たぶにダイヤのピアスを
輝かせている。古代人ならぬ未開人にでもなってしまったかのようである。

なぜかバルタン星人の声で道路を疾走するケムール人…
あの白い混濁液に触れたおっさんはウルトラQの最終話にワープした…
「あけてくれ」…2020年からN次元列車へようこそ。

太陽を直接みると目が盲目になる…
事物を直接みると魂が盲目になる…

ソクラテスが回避したかった要因の一つ・自然研究するうえでの、
不満と恐怖。

アナクサゴラスらのような万物の原因説から、
事物を言論によって証明する。

仮設・ヒュポテシス
いわゆる【本質】とは仮設の別名にすぎない。


目 
日常的事物の把握。それは脳の視覚情報を処理することにより意識化される。


慣習の自同律への辟易

商業化されたスポーツ界への辟易

政府がやくざ化する金融政策への辟易

リゾート政策への偶発的事故・クルーズ客船への辟易


辟易・辟易とばかり苦言ばかり言ってると、苦言はやがて苦痛になる。

社会不安が閾値をこえると人心は疲弊する。

可能性への疲弊
毎年襲ってくる大型台風への疲弊。

不可能性への疲弊
台風ごときさえも破壊するすべもない学者への疲弊。

伝染病大国・中国への疲弊。

理念なきおぼっちゃま総理の全言論への疲弊。











自由詩 辟易から疲弊へ Copyright ナンモナイデス 2020-03-04 13:32:56
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