あの娘は灰色の中に消えた
ホロウ・シカエルボク


波を押し返そうとするみたいに冷たい風がひっきりなしに吹き付ける二月の海岸には僕ら以外人っ子ひとり居なくて、そのせいで僕たちは足跡ひとつついていない砂の上を多少の引け目を感じながらずっと、アイロニカルなリズムで歩いていた、空は薄暗くて、もうすぐ真昼だというのにすでに夜の始まりみたいだった、どうしてこんな日に、なんて思ったりもしたけれどそれはしかたがない、こういう場面には自然と然るべきシチュエーションが設定されるものだ、僕らが初めに望んだみたいな限りなく美しい晴天だったとしたら鋭利な刃物のように胸に食い込んだ悲しみはなかなか癒えることはないだろう、これは救いなんだ、僕はそう思うことにした、そしてそれはきっと彼女だってそうだったはずだ、重いコートを着て、言葉を交わさず、視線を合わせることもなく、ただただ足元を見つめながら波打ち際をなぞるように歩く僕たちは、遊び相手に置き去りにされた自動人形のように見えたことだろう、置き去り、ぼんやりとした考え事から不意に吐き出されたそのフレーズはひどく僕の心を締め付けた、置き去り、いったいどちらがどちらをそうしようとしているのだろう、それはこれからいやというほどわかるのかもしれないし、すべてが終わったあとももしかしたら一生理解出来ない類の疑問符かもしれなかった、でもそんな事実の追及がいったい何になるというのだろう?僕らにとってお互いはこれからもうどんな意味も持たなくなる、理由やきっかけについてどんな考察を提出したところでそのことにはなんの違いもなくなるのだ、先を歩いている僕は立ち止まらずに、そうしていることに気づかれないように目だけを動かして遥か向こうの水平線を眺めた、海底の砂を集めているのだろうか、ずっと同じところで浮かんでいる大きな船の影がひとつあるだけで、他には灰色がかった空と海があるだけだった、ずっと歩いていると僕はそれをありがたい景色だと思うようになっていた、そんな景色だからこんな気分なんだ、すべてをそこに押し付けて納得することが出来た、だから僕はそれ以上何も考えないで歩くことにした、こんな時には思い出があれこれと浮かんでくるのかと思っていたのだけれど、そんな思い出はひとつも浮かんでこなかった、ないはずはなかった、でもそれは擦り切れたレコードみたいに雑に再生され過ぎていた、どこに針を落としても記録されているもののほとんどをノイズが打ち消した、とっくにそうなっていたのだ、いつからか、ずっと…ふと、僕は砂を踏む足音が自分のものだけになっている気がして振り返った、振り返るのは遅過ぎた、ひとつの小さな足跡は少し後ろの方で折れ曲がり、堤防のほうへと続いていた、その足跡の先、コンクリート製の堤防の向こうに、何度も見送った後ろ姿が遠くなっていくのが見えた、僕は立ち止まってそれがどこの誰なのかわからなくなるまでずっと見つめていた、それはとても感傷的な光景だったことは間違いないけれど、僕の胸には微かに針で突かれているような痛みがあるだけだった、すべては終わっていたのだ、もう、こんなに遠くなっていた、僕たちは何か歯切れの悪いものを抱えていて、それがすべてを遅らせていただけなのだ、置き去りにされたのは僕だった、少なくとも最後の最後は―僕は堤防を眺めるのをやめて砂浜を終わりまで歩くことにした、別に他にやることもなかったし、駅へ向かうにはかなり時間をずらした方が良かった、空と海はますます暗く、重たい印象へと変わっていった、雨が降らなければいいけどな、それだけが心配事だった、どれだけ歩いても砂浜が続いているみたいだった、こんなふうに海を歩いたことなんてなかった、スニーカーの中に沢山の砂が紛れ込んだけれど、いまはそれを気にするべきではなかった、波は子守歌のような静けさで近付いては遠ざかって行った、それから一時間と少し歩いた、砂浜は陸から迫り出した巨大な岩で終わりになった、僕はしばらくの間その巨大な岩を眺めていた、四階建てのビルくらいある岩だった、ピーナッツの入ったチョコレートみたいな形をしていた、右手を伸ばしてそっと触れてみると、僕ほどではなかったけれど確かに体温を持っていた、さようなら、と僕は岩に言った、岩はごつごつした肌の隙間からおう、とごう、の間みたいな声を出して答えた、僕は向きを変えて堤防へと歩いた、遠巻きに海を眺めるように設置された味気ない壁を境に世界が切り離されたみたいに思えた、砂の重さに耐えながらあの傾斜を上って、堤防の内側に植えつけられた階段を上ったら僕の世界はそこで終わりになるかもしれない、その先のことは考えなかった、起こったことと起こらなかったこと、どのみちそのふたつしかここにはありはしないのだ。



自由詩 あの娘は灰色の中に消えた Copyright ホロウ・シカエルボク 2020-02-13 22:32:29
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