【詩を書くのを忘れてしまわないススメ】
043BLUE


熊髭bさんの「詩を書くのを忘れてしまうススメ」を読んで感じたこと

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=34372

 やはり、「詩を書くのを忘れてしまう」ことを勧めるのはいかがなものかと思ってしまいました。引用されている、谷川さんの言っている事は、あくまで職業的な詩人の詩の話ではないか。絵で言えば美術史に残るようなレベルの作品のことを言っているのではないか。誰だって、そのような絵が最初から描けるはずもなく、どんなに絵の上手な人でも99%以上の人は結局生涯かかっても描けないのではないでしょうか。だからといって、子供が絵を楽しむこと、大人がサークル等で絵を楽しむことが無駄なことではないと思うのです。

 何が言いたいかというと、熊髭bさんの発言はそうした、「凡人」の詩の成長過程を無視して話しているように思われる。つまり、詩を書くことが言葉によって「世界」を捉え直すことであるとすれば、そのためには、まず言葉によって「己」を捉え直すという段階がどうしても必要なのではないかということです。「己」がまず「自立」していなければ、不安定な土台の上に言葉が築かれてしまい、より大きな「世界」(谷川さんの言う集合的無意識)を捉えようとする言葉は成立しないはずだからです。成長するためには、「自分べったり期」は必然的に乗り越えなければならないのではないかということです。

 絵、言葉、音楽などによって「自己」を表現することは精神的成長に欠かせないものであると思います。必ずしもそれらを職業とすることが目的でなくても、子供にとっても、大人にとっても、それらの芸術表現をいくらか身に着けることは「自己を捉える」のには依然、有効ではないでしょうか。

 いずれにしても、より大きな「世界」「集合的無意識」を捉える程の技術や表現力は、それを続けることでしか身に着けることができないのではないだろうか。結局は「己」を捉えるということを辞めたところからは「自立」した言葉は、生まれないのではないかということです。自分の歌の下手さに飽きたからといって、歌うことを辞め、他人の歌を聴いているだけでは永久に下手なままなのではないか。それは結局、そこそこ自分でも「俺って歌がうまいよな」と思っていた人が、プロの歌を聞いて急に恥ずかしく思い、歌うことを辞めてしまうような、プロ画家の絵を見て、絵を描くことを辞めてしまうようなものではないのか。(その気持ち痛いほどよく分るけれど・・)

 子供の「騒がしさ」それは、成長過程の一つです、叱りつけ黙らせるのではなく(無視することはもっといけない)じっくり見守ることも必要ではないでしょうか。自らの「未熟さ」を凝視することは、しんどいかもしれないが、その「騒々しさ」から逃げずに向き合い、「自己」をしっかりと捉え「自立」し、それから、もっと広い視野をもって、「世界」に目を向ければよいのではないでしょうか。 うまく言えないけれど、自らの「未熟な騒がしい叫び」に耳を傾けてあげて欲しいのです。 熊髭bさんは、俳句をたしなむこと、ひとの話をよく聴くことで、そこから「自立」しようとしているということなのでしょうか?僕は「凡人」なので、よくわかりませんが、やはり「詩を書くのを忘れてしまう」ことを勧めるのはいかがなものかと、思ってしまうわけです。(ここの人たちにそんなこと言っても無駄なことくらい分った上で言っているのでしょうけど・・笑)それも、一つの表現だと言ってしまえば、それまでなのですが・・。

 言葉、絵、音楽はそれを上手に使いこなせる人だけのものではなく、すべての人に開かれた、誰もが自由に使える表現としての道具だと思います。同じことは、スポーツに関しても言える。プロの野球選手になれなくても、サッカー選手になれなくても、音楽家になれなくても、画家になれなくても、詩人になれなくても、「凡人」は、ただ楽しめばいい。自由に遊び、自由に表現すればよい。好きなことを好きなように表現できるのが、「凡人」に許された特権なのだから。しかし、それを、続けることで、その人はやはり確実に成長してゆくのだ。(イチローにはなれないから野球をとりあえず辞めろと子供に言うのはどうか?田舎から上京してあらゆる分野で上には上がいることを知り好きなことを辞めるのはどうか?)色目など使わずに、「好き」ということをいつまでも大切にして欲しい。

   言葉もいきなりは、大人になれない。ただの日記、ノートの片隅に走り書かれた、行き場のない言葉の叫びのような「己べったりな」ぶざまな言葉の羅列。そんな、「騒がしさ」を、路地裏から聞こえてくる子供の声のように、聞き流せたらいいな と・・。あぁ、詩が成長していっているんだなと・・。自分の言葉も、人の言葉も、その成長をゆっくりと見守るように。あっ、「天才系」の人には当てはまらないと思いますので、ゴメンナサイ。僕自身、よちよち歩き、ハイハイ状態なので、この文章自体とても「騒々しい」ものになってしまいました・・失礼。 凡人バンザイ!




以下追加・・・
このエッセイに対しての熊髭bさんのコメントをいただきました。
↑「詩を書くことを忘れてしまうススメ」作者コメント欄参照・・
フォローさせてください・・。
なんか熊髭bさんを悪者にさせちゃたみたいで申し訳ない。

>「この文書が子供向けではないことを察して欲しい。」
BUT
>「詩が書けなくなったなんて悩んでいる少年少女よ」
と、言っています。。

  だけれどきっと、熊髭bさんは「君たちもっと大人になんなさい!」と言ってくれているのだと思います。詩を愛するがゆえにあえて詩から離れてみる、愛する故にあえて離れて過ごす大人の恋愛みたいな、長年連れ添った夫婦が愛を取り戻すためにあえて離れてみるみたいな、めちゃくちゃ大人な話をしているのだと思います。ぼくは、お子様なのでよくわかんないですが。そういう生き方は憧れますし、めちゃくちゃカッコイイと思います。ただ、熊髭bさんは「詩を書くことを」本当に「忘れて」しまっているのではない、詩を本気で愛している故に、「忘れること」を選択しているのだと思うのです。(勝手な憶測ですが・・。)
  ただ、このフォーラムは大多数のお子様たちと、極少数の大人が同居している特異な場であり(しかも大多数のお子様は自分が楽しむためだけに書いているとは認識していない・・いつか大リーガーになってやろうと思っている・・)そうしたお子様にとっては、18禁のシーンにびっくりしてしまい、そのままに捉えてしまう人もいるのではないかと思った次第です。。

「バランス取ってくれてありがとう!」>熊髭bさんの優しさに甘えさせていただきます。

以下追記(05/04/04)
  熊髭bさんの発言をこう捉えました。「書を捨て町へ出よう」的な呼びかけだと。部屋にこもって絵ばかり描いていてもいい絵は描けない。部屋にこもって詩ばかり書いていてもいい詩は書けない。もう今までのレベルでは満足できなくなってしまったなら、とりあえず書くことを「忘れてみる」、そしてまた書きたくなったら書けばよい。・・これもまた当たり前といえば当たり前のことだけれど。詩人であるかぎりこの両極を生涯行ったり来たりするのでしょうね。しかし、仮にぼくが「大人」になれたとしても、(いやずっと子供のままでいたいとさえ思っているのかも知れない・・)最後は「子供」にもどりたい。それを目標にしたい..。「子供」の詩には、一度「大人」になってしまったひとには、もう書けない、忘れてしまっている何かが確かにあると感じるからです。



散文(批評随筆小説等) 【詩を書くのを忘れてしまわないススメ】 Copyright 043BLUE 2005-04-03 06:19:39
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