棺の部屋
ホロウ・シカエルボク


ガラス窓の表面にはいつからともつかない埃が付着し、それにどこにも逃げていかない湿気が浸透して、古い糊のようになって不愉快なまだら模様を作り出していて、こんな小雨の降る夕刻にはなおのこと気分を暗くさせた、身体を椅子から起こす気になれず、指に挟んだまま忘れていた煙草の火が、広い洋上で発せられた救助要請信号のように薄暗がりの中でぽつんと浮かんでいた、明かりをつけて本でも読もうか、さっきからもう何度そんなふうに考えただろう?そうしたほうが少しでも得るものはあったが、この一週間のあいだに溜りに溜まった疲労は突然降り注ぐ雹のように心臓を殴り続けていた、目を向けることなく、おそらくそのあたりに置いてあったはずの灰皿の上で煙草をもみ消したつもりだったが、葉書が焦げるような臭いがした、どうやら的を外してしまったらしい、ふん、と鼻で笑ってなかったことにした、失敗はすべて忘れてしまうことだ、あとから悔やんだところでどうしようもないこと、この次は同じミスはしないように気を付けようと思っても、結局は繰り返されてしまうのだ、おかげで机は焦げる一方、差出人のわからない葉書が増えるばかり、もしかしたら誰にも返事をしたくないのかもしれない、失敗の理由としてはそれはなかなかに気の利いた要因だった、だけどそれは気分を変えるようなセンセーショナルなものでもなかった、戦場で耳にするジョークってきっとこんな感じだろう、火薬の臭いを嗅いだことすらない人間だけど、それはきっと似たような感じだろうと思った、地球の裏側の人間だって目と鼻と口の数は同じだろう、それぐらいには確かなことだった、ポップ・ソングやロックンロール、ホラームービーやアクションムービーが世界中に蔓延るのは、世界は退屈な舞台に過ぎないってみんな理解しているからだ、哲学や文学だってそうだ、もしもそこに描かれるものが初めから周囲に存在していたなら、芸術なんてどんな意味も持つことは出来なかっただろう、鏡に映る自分が自分のすべてではないと感じたとき、誰もがなにかを語ろうと試みるのだ、それは美しいことでもあるし、おぞましいことでもある、誰かの心を強く動かすということは、同時に傷つけることでもある、刃物は研いであるほうがいい、でも、あまりにもそこにこだわってしまうと、少し触れただけでも簡単に指を落としてしまうようなものになる、そんなものを自分が持っていると自覚してしまったら面倒だ、こちらから歩み寄るという気持ちのいっさいを捨てて、安全な距離を保っておかなければならない、それは責任のようなものだ、核弾頭を所持しているのなら、ボタンは押さない、たとえるならそういうことだ、ようやく起き上がり、明かりをつける代わりに窓を少し開けてみる、大人しく吹いている風には、この街に付着した埃の臭いがする、シチュエーションというのはときに凄くわかりやすいものだ、でもたいていの事柄は細やかすぎてほとんど気づかずにやり過ごしてしまう、指にはざらついた感触が残った、昨日そこで叩き潰した虫のせいだろう、街灯に近いこの窓にはたくさんの虫がやってくる、中にはどこからか部屋に侵入してくるものがいる、そいつらはだいたい窓のそばで叩き潰される、集まるときも逃げるときも、虫たちは光のさすところに寄って行けばなんとかなると思っている、そしてそれはたいていの人間たちも同じだ、シチュエーションというのはときに凄くわかりやすいものだから、窓を閉めてカーテンを引き、明かりをつける、カリプソのリズムで何度か瞬いて、部屋はようやく明るくなる、本棚が足りず、積み上げられたいくつもの本、隅に追いやられたコンパクトディスク、まるで主を失ったみたいな焦燥に満ちた部屋、鎮魂曲を待っている、でもそこに至るまでにはもう少し出来事を積み上げることが出来るだろう、もう日没は過ぎただろうか、水溜りを跳ねるタイヤの音が断続的に聞こえる、車のハンドルを握る人間たちはどこか機械的に見える、今夜はどんな夢を見るだろうか、近頃はやけにくっきりとした夢を見る、魂はもう新しい住所を探し始めているのかもしれない、誰かが部屋をノックしている、親族のようになれなれしく、しつこい、誰かが訪ねてくる約束などない、セールスか、運命を魅力的な偶像に委ねた甘ったれの下らない話かもしれない、自分の中に神が居ないのなら首をくくればいい、ドアベルの電源は切ってある、開けて欲しければ手を痛めるしかない、おそらく余程の気まぐれがない限りドアは開かれることはないだろう、そうして夜はいつのまにか深くなり、棺の部屋はその時を待ちわびているだろう。



自由詩 棺の部屋 Copyright ホロウ・シカエルボク 2019-04-11 21:54:59
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