おれの(おれたちのではない)イチローだった
はだいろ

金曜日の朝、イチロー引退のニュースに、
思ってもみないショックを受けた
春は毎年、鬱になる傾向・・・
人事異動のせいなので、深遠なる理由は特にない
あと、花粉と。
職場への道を、てくてく歩きながら考えた、
おれのイチローのこと
今、ポテトチップスをかじりながらその時の思考を、
たどってみる


イチローは、おれにとって、ウルトラマンだった。


阪急ブレーブスがオリックスに身売りして、
たった1年だけ、オリックスブレーブスというチームが存在した。
その年、おれは浪人生で、寮生活で、
テレビはなく、勉強は全くせず、
ひたすら朝から晩まで、ラジオを聴いていた。
玉置宏の笑顔でこんにちはから、文夫と明子のラジオビバリーヒルズに行って、
吉田照美から、文化放送ライオンズナイターを聴くのである。

なぜ、ライオンズナイターかというと、
当時、ラジオもテレビも、ナイター中継は全て、巨人戦のみだった。
優勝の決まった後の消化試合でさえ、そうなのである。
ブレーブスファンのおれが、
西武と近鉄と三つ巴の苛烈なデッドヒートが展開されていたシーズンの試合経過を、
リアルに聴こうと思ったら、
「はっきり言ってライオンズびいきです」の、文化放送に波数を合わせるしかなかったのである。

全ての国民が、
プロ野球とは、巨人が主役の伝統芸能であり、
巨人こそが唯一善玉のウルトラマンであり、その他11球団は、
あくまでもウルトラマンに立ち向かい、最終的には倒されるべき怪獣であるとの、
共通認識、合意が取られているかのような、
大前提で、プロ野球文化が、形成されていたのである。
たった、30年前のことである。
おれは、一切、一度たりとも、合意したことなどなかったのに。
少年の頃、野球など知らない母親が、
たまたま買ってきた野球帽子が、
阪急ブレーブスのものだった日から。


その年、結局ブレーブスは1厘差の勝率で敗れ、
おれはまた大学に落ちまくり、
翌年にはオリックスはあっさりブレーブスという名を捨て、
オリックスブルーウェーブという、
決して馴染みようのない奇妙な名前の野球チームが生まれるのである。
ところが・・・



その、挫折したおれの夢の残滓のような陽炎の中に、
一人の若者が現れる。
当時はテレビ中継もあったジュニアオールスターで、
ホームランをかっ飛ばし、MVPをとった。
鈴木一朗。
もちろん、無名である。
オリックスの二軍の選手である。話題はパンチ佐藤しかない。
ドラフト4位の選手である。


それからは、あれよあれよである。
200安打を記録した時、誰だったか、「イチローの水しぶき」という表現を使ったけれど、
どれだけ、フレッシュで、まばゆく、美しい輝きだったことか。



96年の日本シリーズ、オリックス対巨人の第1戦。
延長10回に、それまで沈黙していたイチローが、
決勝ホームランを打つ。
翌日の、日刊スポーツの一面を、おれは、忘れることができない。
かっこよかった。イチロー。
その瞬間、
イチローこそが、ウルトラマンだった。
唯一無二の、主役だった。
巨人は、やっつけられるべき、怪獣にすぎなかった。
おれの主観ではなく、全国民的に、圧倒的な現実、事実として、そうだった。
これは、コペルニクス的、天地大転換の瞬間だった。


もし、イチローが、おれのイチローがいなかったら、
おれは、おれのこころは、あの89年のシーズンに挫折したまま、
うつむいたまま、
いじけてひねくれたまま、世を拗ねて、恨んでいただけだったかもしれない。
イチローこそが希望だった。
圧倒的な光だった。
本当に、世界を変えたのだ。おれは、それを見た。それを生きた。



例えば・・・おれにとって、
忌野清志郎は偉大である。立川談志は偉大である。
だけども、例えば、典型的な昭和の人間であり、
巨人ファンであり、
自民党支持者であり、
巨人が負けていればテレビを消すような、男であった、
うちの父親に、
清志郎や、談志の偉大さを、
おれはわからせてやることは、絶対にできないだろう。
不可能である。
それは、おれが個人で消化するしかない。孤独に、消化するしかないのである。
だけど!だけども!
イチローの偉大さは、親父でもわかる・・・
理解できる。
明らかなのである。わかり、あえるのである。



おれは、そのことに、今さら、
思いあたり、
泣きそうになっているのだ。
おれの。おれたちのではない。
おれの、イチロー・・・
















自由詩 おれの(おれたちのではない)イチローだった Copyright はだいろ 2019-03-25 21:24:57
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