盆栽理論家(仮)としての生きるということ
足立らどみ
何故だか比較的若いころから盆栽が好きです。
部屋や庭にある盆栽を愛でる気持ちは、
盆栽理論家(仮)でないとわからないかもしれません。
愛好家とか好事家では伝わりません。
普段は眺めるだけだけど
芽摘み鋏で少し整えるときは
生物とは何か生きるとは何かと思うこともあり
これも盆栽理論家(仮)といわれる由縁なのだなと思うわけです。
盆栽が趣味なんですかといわれると、生活の一部みたいな気持ちです。
犬や猫を飼うのが趣味なんですかと謂れて少し違う気持ちと同じです。
盆栽が好きな理由は樹木に対する不思議な気持ちが根にあります。
樹木の構成の大半は死んでいるわけですが、中心のあかみのように
樹木の生命は、生命活動的に死んでも物理的に樹木を支えている
守ってくれているのですが、これが人間とはぜんぜん違うわけです。
あえていうと
人間の死者は死んでからも精神的に守ってくれていると信じたいところですが、
樹木は、死んで心材になっても樹木を目で見える形で
支えてくれているわけで、死んでも一言も語らず、身を呈して物理的に
守る態度が尊敬できるのです。現代の人間は死体に対して腐敗する前に
焼くなりなんなりしてきたわけですが、樹木は死んだ部分も含めて樹木なのが
皆様のような人間様と大きく異なっていたりする。
盆栽を通じて、全く違う生命体系に驚きの連続です。
いつも沢山のことを学ばせてもらっています。
お師匠さん、ありがとうございます。