窓が開かれる
葉leaf
感受性というものは人それぞれだが、特定のジャンルのものに特に鋭敏な感受性を持つようになる経験は誰にでもあると思う。例えば音楽に目覚める、美術に目覚める、将棋に目覚める、様々な種類の開眼がある。その中で、私は文学に対して目覚めた時の経験を書こうと思う。
文学に目覚めるに先立って、私にとっておそらく大事だったのは自然の美しさに気づくという経験だった。確か中学二年生ぐらいの時、何気なく実家の庭を散歩していたところ、急にあたりに生えている草木の美しさに気づいたのだ。濃い緑の葉を持つ灌木だったと思うが、私は度数の入った眼鏡をかけたかのようにまばゆく感じたのだ。世界がこんなにも光に満ちたものであるということに私の胸は高鳴った。これはおよそ美しさというものへの開眼だったように思う。
私の文学への開眼のきっかけとなったのは梶井基次郎の諸作品である。梶井の文章は自然や心理の微妙なところに分け入り、細かな表現がいちいち戦慄をもたらした。私は梶井の小説を詩として受容していたことになる。私は当時高校生であり、いまだ人生という大局的な視点を持つには幼すぎた。小説の全体を感じ取ったうえでの感銘というものはまだ私には早かった。私は梶井によって詩に開眼したといってよかろう。
梶井のたった一冊の本により、私の前には広大な窓が開かれた。その窓の先には文学という豊饒な世界が広がっていた。それから私は三島由紀夫や安部公房などたくさんの小説を読んでいくことになるが、その端緒を開いたのが梶井の作品だった。人生とは窓を開いていく過程だと思う。文学の窓、音楽の窓、仕事の窓、家庭の窓。人生には様々な領域があり、それぞれがそこへと至る窓を持っている。その窓が開かれるきっかけは人生のいろんな場所に用意されている。たくさんの窓を開いてその先の豊饒な世界を探索していくということ。そのことにより人生がどんどん彩りに満ちたものとなっていくこと。人生とはひっきょうそのような営為ではないか。