あなたの居なくなった世界に
ホロウ・シカエルボク



枯れたバラ園のそばで
鮮やかな過去に埋もれて
もう聴こえないヴァイオリン・ソナタの
朧げな旋律を追いかける
厳しく美しい冬
風は心の奥まで
凍らせようと目論んでいる
死んだ土をすくいあげて
甘い匂いを探すものの…


太陽は幻想のように高く
光は針のように降り注ぐ
いつかもあった冬の日
でもかつてないほどの


傾いた門扉は語り部のように
いつとなくゆらゆらと揺れている
(もうここにはなにもない、誰も居ない)
そんなことを語りかけているように見える
かつてあったものだけを守り続けようとそうしているように見える


大きく
優しい犬が二頭居た犬舎には
毛皮の匂いだけが染みついている
いつも学者のような目をして
低い声で挨拶を交わした無垢なものたち


正面玄関の天使のレリーフ
同じ表情で佇んでいる
喜びも悲しみも心として同等なのだと
ともすれば白紙に見えるような
手紙を出し続けてでも居るような笑み


ロビーにはきっとまだ確かに
あのころのままの空気が漂っているだろう
そこに住むもののことよりも
訪れた誰かに披露するためのようなあの
鼻持ちならない装飾
どんなときも全員で囲んだ食卓はすっかり埃を被って
しかめっ面をしているに違いない


大好きだった浴室
凝った細工を施したシャワー
裏庭に面した窓
居眠りをすると溺れてしまいそうな
大きくて深い浴槽


二階にはわたしと弟の部屋があり
午後になるとわたしはその部屋を出て
屋根裏部屋で詩を書いたものだった
跳ね上げ窓を開けて餌を撒いておくと
雀らがやって来てそれを啄んだ
必ず陽だまりだったあの窓
そこに居ると
わたしは誰にも気づかれることはなかった


そんなに遠いことではないはずだった
取り戻せないものではなかったはずなのに
すべては現在でないもののために作り替えられた
無理矢理引き寄せようとすれば
根元からがらがらと崩れてしまうだろう


まだきっとそこで綴っているだろういつかのわたしを
いまのわたしはしばらく見上げていた
あの頃未来だと思っていたことは
日々の彼方に消え去ってしまい
わたしはただ
身なりを整えては出かけていくだけの


わたしは踵を返して
来た道を逆に辿った
どんなことのためにここに来たのか
いまではもうわからなくなっていた
風は心を奥まで凍りつかせて
ヴァイオリン・ソナタの旋律のすべては
とうとう
思い出すことは出来なかった





自由詩 あなたの居なくなった世界に Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-12-20 23:49:26
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