スラップスティック・メルヘン
ホロウ・シカエルボク


サウジアラビアの油田火災のニュースが流れる電化店のフロアーを
ローリング・ストーンズのシャツを着た若い女がナイフを持って歩いている
彼女の敵意は自分にだけ向いているようで
右腕は指先から肘のあたりまで傷口が見えないほどの血に濡れていた
警備員は側にいるもののどうしていいかわからず
年老いた女の店員は青ざめた顔で床にモップをかけていた
誰かが警官を呼んでいるのだろうがそいつらはまだ到着していなかった
俺はレストスペースでスマホを眺めていて
その騒ぎに気付くのが遅れた
俺の無関心は女の気に入らなかったらしい
突然走り出して振り返りざまの俺の左肩口にナイフを突き立てた
俺は何故だかひどく落ち着いた気分でその状況を受け止めた
ハイになっているのか痛みは感じなかった
それに致命傷でないことはすぐにわかった
女の顔には気の毒になるほどの迷いだけが見えた
周囲は大騒ぎしていた
俺はナイフから女の手を引きはがし傷口から引き抜いた
そして休憩スペースの隅にナイフを投げ捨てた
女は諦めたようになにもしなかった
「わかるかい?」と俺は聞いた
女は予想もしないことを言われたとでもいうように目を少し大きく開けた
「傷を負って血を流している人間がここに二人いる、でも誰も助けになんか来ない」
「世の中なんてそんなものなんだ、遠巻きになにかいいことを言えばそいつは正しいってことになる…ほら、あそこでそう言ってる、警察はまだなのか、救急車を呼んだ方が良いわ、ってね」
「傷なんて人に見せるもんじゃない、痛くても怖くても悲しくても自分がそれを飲み込んで消化するしかない、わかる?」
女は俯いた、不揃いの伸び過ぎた髪がその顔を隠した、でも泣いていることはわかった
「俺は君をどうこうするつもりはない、おかしな言いかただけど、俺が君くらいの年齢のころ、君よりももっとひどいことをしてしまう可能性だってあった」
「自分を見つめ過ぎてどうしようもなくなって、結果他人に向かってしまうことはある、君が俺を狙ったのは、俺がひどく無防備だったからだ、たぶんそうなんだと思うよ」
女は俯いたまま動かなかった、やがてどたどたと足音がして、警官が二人現れた、彼らは俺たちの状態を見て、いったいどちらがどちらをやったんだ?という顔をした
俺は被害者で彼女が加害者だ、その腕の傷は彼女が自分でやったものだ、凶器はあそこだ、俺が自分の腕から引き抜いて投げた、と俺は一通り説明した
「救急車を呼びます」と若い、ブロンドを兵隊みたいに刈り込んだ警官が言った
そうしてとりあえず大騒ぎは終わった
病院で治療を受け(今後腕が動かなくなる可能性もあったそうだ)警官や医者とあれこれと話をした、俺は彼女を訴えないと言った、でもひとつお願いをきいてほしい、とインテリくさい黒人の警官に言った
「入院してる間、彼女と二人部屋にしてくれないか?」警官は怪訝な顔をした
「それは…どういう…?」
おかしなことは考えていない、と俺は言った「たださ、精神科医とか、児童福祉施設とか、そういう連中よりは、俺のほうがいいと思うんだ、彼女のケアは」
無茶なお願いだとは思うよ、と俺は認めた
「でもさ、俺を刺した時の彼女の顔…まるで自分が刺されたみたいな顔をしてたんだ、ナイフを通じて彼女の痛みが俺に伝わったような、そんな気がしたんだよ、どうかな、入院中だけでいいんだ、彼女のケアを俺にやらせてみてはくれないか?」
警官は規則と人情とそれから少し奇妙な事態への興味を測りにかけているような表情をした
「上に相談してみるよ…正直言って俺たちにとってはそんな大事じゃない、あんたがそう言うならもしかしたら通るかもしれないよ」
それに俺たちにとってもありがたい申し出には違いない、と警官は少し声を落とした
「その、精神科医だの児童福祉だのの手配をやるのはたぶん俺だからね」
そういうと警官はウィンクをして出て行った、まったくあいつらはどうしていつも舞台に立ってるような仕草ばっかするのかね
それから数日して被害者と加害者はめでたく二人部屋に落ち着いた、女は初めは緊張し怯えていたが、自己紹介を済ませ、お互いの傷の状態を確かめ合うと少しリラックスして話し始めた
「私は甘えていたんだわ」
まだ甘えていい歳だ、と俺は笑って言った、彼女も笑って首を横に振った
「両親とか、周囲の人間とか―そんな小さな世界の中で誰ともうまくやれないってそれだけで、地球上に人間すべてが自分の敵だって思うようになってた、あなたの腕を刺した瞬間にそのことがわかったの、パーンって…風船が割れるみたいに馬鹿な考えが弾けて飛んでった」
俺は頷いた
「ところがあなたは顔色ひとつ変えずに私からナイフを奪って放り投げたじゃない?もう駄目だ、と思ったわ、自分がひどく間違えていたことがわかったのに、もうそれをやり直すチャンスはないんだって」
ちょうど痛くないところに刺さってたらしい、と俺は説明した
「手術の時の痛み止めの注射のほうがずっと痛かったよ」
俺は大袈裟に痛がる素振りを見せた、女は歳相応の明るい笑い声を上げた
まさか自分がナイフを突き刺した相手に慰められるなんて思わなかったわ、と笑い終えると彼女は呟いた
「ごめんなさい、それと、ありがとう」
俺は頷いた、彼女は人間的に賢い娘だ
それから俺たちは数日の間、病室で他愛無い話をして過ごした、黒人の警官は時々様子を見に訪れ、俺たちの様子を見て楽し気にからかった
「ディズニーの映画を観てるみたいだ!」
退院は俺のほうが先だった、俺は彼女に自分のアドレスを教えた、彼女はその意味をわかっているみたいだった
「退院してもしばらくは連絡しないわ」
「お父さんやお母さんと話をして、大切な友達と仲良くして、嫌いな友達とはつきあいをやめて、生活が落ち着いたらアルバイトをして、あなたに何かご馳走する、もう決めてるの、どんな高い店でもいいわよ、全部私が払ってあげる」
俺は笑って彼女と握手した
「楽しみにしてるよ」
再会したのは数か月後で、彼女は見違えるような生気に満ちていた、身体を鍛え始めたのか、しなやかな筋肉がついていた「そうよ」
「ジムに通っているの、トレーニングって楽しいわ、考えなくても結果が出る」
「俺もやろうかな」俺がそう言うと彼女は嬉しそうな顔をした「私が教えてあげる」
「私、インストラクターになりたいと思うの、トレーニングって人を幸せにするわ」
「次に刺されたら俺は間違いなく死ぬな」
彼女は笑いながら物凄い力で俺の背中を叩いた、それから俺にとんでもなく高い料理を奢った、今回は俺がひどく緊張する番だったわけだ
それからも俺たちは時々会っている、彼女は高校を卒業し、めでたくインストラクターの職を手に入れた、教え方が上手いらしく、人気があるそうだ「人にものを教えるってことは」と彼女はいつも得意げに話す
「自分の知ってることを片っ端から話すだけじゃ駄目なの、相手がそれをきちんと理解出来たかひとつずつ確かめていくことが大事」たいしたもんだ、と俺は相槌を打つ、そして、あなたはいつ私の生徒になるのかと問い詰められてのらりくらりと交わす、それから彼女はやれやれという表情で決まってこう言うのだ「ところでいい人は出来たの?」
「ずっと一人で居るつもりなら私が力ずくで奪っちゃうからね」
今度捕まるのも俺の番―そういうことなんだろうか?



自由詩 スラップスティック・メルヘン Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-12-16 22:21:37
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