詩と責任
腰国改修

責任感という言葉、または漢字で書いた字面にどういう印象を持つだろうか?何かお硬いような、厳然とした感じを受けるか、或いは何か正義感や道徳観に通じるものを感じるだろうか。

前回、詩や詩作と責任感や道徳観は別の層に属しているというようなことを書いた。書いたが、そのあと、本当にそうだろうか?と自問自答。

たとえば、詩を書くにあたり、ある種の規範(ルールや法律でもいいが)に対して詩を書く人間以前に一人の人間として果たさなければならない責任があるのではないだろうか?と考える。

まずは、著作権。これを侵害しないようにと言われたら、分かりましたそのルールは責任を持って守りますということになるが、出典や引用元を明記し、これはパロディーであると宣言して書く一種のカリカチュア詩(そんなのあるのか?)などは無責任だろうか?

また、他者を攻撃する詩はどうだろう?人間誰しも某かの信念があり、全く逆の信念でも認め合うということが理想であるとしても、それが出来ないときにAはBを攻撃する。Aは自らの信条や信念を侮辱、攻撃されたから反撃に出た。これはいわゆる喧嘩、係争状態で犬も食わない。それでも当人同士が責任を持って殴り合うなり、殺し合うなりすればいい。そこにはもはや詩を書く人間の責任もモラルも、また、一般人としてのそれらもない。実際に殴り合ったり、殺し合いをすればどちらかが、或いはどちらも罰せられる。そう考えれば、責任感とか倫理観とか道徳観などは吹いて飛ぶ紙一枚に思えてしまう。

何にしても所詮、所詮と言っては元も子もないが、やはり、所詮は紙の上のお話(あ、今では紙ではなくweb上か)で、たとえ読み手が吐き気を及ぼすような詩でも無責任に書くことは許される。表現の自由があるなら。ただ、ちょっとした責任感を持った人なら『この作品には〇〇な表現が含まれていますので〇〇な方はお読みにならないでください』などと但し書きをつけるか。表現の自由や思想及び良心の自由を盾にとれば、実際に何かを行い罪を侵さなければある意味では無責任でいいのである。

とすると、やはり詩を書く人間はある程度無責任でいいのかなと思う。互いに罵り合ったり、口論したり、歪みあったりするのも実は自由で、それが自らの正義や思想に反するなら関わらなければいい。やはり食わぬものは食わないし、食えるものだけ食えばいい。当事者たちも無責任でいいのだ。ただ、詩を書く以上は思ったことを書くであろうし、よく言われるようにそれに対する反論、罵詈雑言、批判、批評は芸の肥やしにしなければならない。聞いて心地よい言葉やお友達倶楽部だけでは、一段上の場所や素晴らしい詩境には到底到達できないのではないかと私は思う。

と、また、与太話を漏らしてしまった。ああ、ブリブリ。


散文(批評随筆小説等) 詩と責任 Copyright 腰国改修 2018-11-01 12:53:52
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