ふたばさん「某日」に寄せて。
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真夜中に一人というシチュエーションは、
石垣りんさんの有名な詩を思い起こさせる。
まずここで全文を引用しておこう。
シジミ
夜中に目をさました。
ゆうべ買ったシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。
「夜がアケタラ
ドレモコレモ
ミンナクッテヤル」
鬼ババの笑いを
私は笑った。
それから先は
うっすらと口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかった。
生きること、生活していくことは、とてもタフな仕事で、
いろいろなものを犠牲にして、同時に犠牲となって、
それでもやっていかなくてはいけないことで。
「シジミ」では、
何かを犠牲にしなければ生きていけない事実と、
同時に自分自身も何らかの犠牲となっていることを自覚する苦しみ、
その両義性が夜の出来事に集約されている。
言わば加害者性と被害者性の共有が描かれているのだが、
「某日」ではこのうち後者の被害者性に意識が集中され、
加害者性はほぼ意識されていない。
ただしもちろんその点がこの作品を貶めるわけではなく、
(それを欠如と捉えて作品を貶める行為は読者の傲慢だと個人的に思う)
意識の向く角度が、「シジミ」と「某日」では異なっているだけだ。
「某日」で表現されている(話者の)意識のポイントは侵食感にある。
それは「火」であり「音」であり、総体的象徴として「夜明け」であり、
> やがて夜明けが部屋の隅々から
> しみこんでくるでしょうね
に集約されている。
そしてこの侵食感に対する抵抗として、
話者は「同化」という行為を行う。違う、行おうとする。
「同化」あるいは「同化しようとする行為」とは、
侵食してくるもの自体になることによってその侵食を食い止める行為であり、
この行為は、自身を侵食するものと対峙するための手段であり、方策であり、
同時に逃げ道でもある。そして、作品内における同化の描写で最も重要な要素は、
> ただの火か音に
> なりすましているかのよう
この一節の、「なりすましている」にある。
「なっている」のではなく「なりすましている」のだ。
「なりすます」ことは厳密に言えば「同化」ではない。
「同化」ではなく、「同化しようとする“作為”」だ。
我々はもちろん真に同化することなど不可能であり、
この「なりすましている」というフレーズには、
「同化しようとする行為」が持つ厳密な意味での不可能性を、
端的に(あるいは無意識的に)示していると考えるのは深読み過ぎるだろうか。
ここには、そうやってやりすごすしかない不器用な姿がある。
器用にそのものと同質になることができず、
とりあえず皮を被ってそのフリなどしてやりすごす。
あるいは、
「今はそのようにしているがそれは私の本質ではない」という意志表示のための。
ここで言う“作為”とは、そのような、不器用であるが故の意志だ。
同化についてもう少し。
同化は視点を変えれば、自身の強制的異化であり、
それにはあたりまえのように苦痛を伴う。
(もちろんその苦痛より耐え難い苦痛から逃げるために「同化」はある)
その苦痛は、
> かんがえないように
> かんがえないようにして
という何気ないフレーズに集約されていて、
また、前述の不器用な姿の裏付けにもなっている。
(器用にやりすごせるのなら、このような苦痛は発生しない)
この連に含まれる話者の心情を汲み取ることができなければ、
この作品の本質は見えない。
「作為」についてもう少し。
「シジミ」での同化は「口をあけて」で示されている。
話者はシジミと同様に「口をあけて」寝ることで、
シジミとの同化が果たされている。
もちろんこの同化は侵食への抵抗として行われるものではなく、
そこに“作為”は存在しない。
「寝るよりほかに私の夜はなかった。」という最終行は、
「私にはそれしか残されていない」という意味を含み、
「意志・作為」よりも、そうせざるを得ない「状況」がある。
「意志を以って作為として進まざるを得ない同化」と、
「状況としてそれしか許されない同化」。
どちらがより不幸であるのか、私にはわからない。