悪左衛門
春日線香
悪左衛門の誕生を待つこと
それは誰も避けられぬ責務である
部屋の四方は障子で堅く閉ざされている
芋之助もそれを強いて開けようとはしない
薄ぼんやりした光が室内に差し込み
時折、障子に異形の影が踊る
されこうべや落武者
蛇女、雀娘、茶坊主の類
巾着切り、殺人者、死体漁りなど
およそありとあらゆる影の戯れを示すが
実のところ、この物語には関係がない
悪左衛門こそがひとつの実体を持つ
悪左衛門とは何だろう
芋之助はかねてよりそう問うてきたが
一向に答えははっきりとしない
ただその問いを向けるべき対象が
彼の前に横たわる一匹の馬であることが
近頃ようようわかってきたところだ
なんとなれば馬は孕んでおり
その生まれつつあるものが
悪左衛門であるらしいからだ
深夜である
芋之助が茶など飲みつつ馬を見ていると
馬は青白い膜の張った目を彼に向け
気怠げに出産の合図をする
彼らの間についに合意が成り立ち
いよいよ関係の精算がなされることになる
丸く張った腹に出刃包丁を当て
一息に切り開けばいいだけ
そうすればこの苦役から逃れて
二度と面倒事に関わらずに暮らしていける
悪左衛門などに関わらずに生きていける
芋之助はそう考えている
不思議な明るさに満ちたこの部屋で
馬と一人向かい合うのは
一体、何者であるのだろう
この特徴のない影のような男は?
彼がもうすでに千年も座敷に閉じ込められ
老いることなく影絵芝居を続けているのは
どのような悪魔の仕業であるのか
あるいはその悪魔こそが
悪左衛門という名を持つのだと
一応は考えることはできるが
包丁が腹を裂き
あとには馬の残骸が残されるのみである
取り出した悪左衛門を袋に収めて
障子を開けて外に出ると
古びた門をくぐって道を歩いていく
天狗も棲む森の中の暗い道だ
自らの素性を隠して
悪左衛門を始末するために
はるか遠くまで行かねばならない
芋之助はそう考えている